完璧な自由は孤立であり孤独である。
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やりたいことをやるというのは、完璧になるほどに、ある意味、孤立するし孤独になるということです。
誰もが自分のペースというのはあるもので、
「役立ちたい相手に役立ちたい」とか「認められたい相手に認められたい」とか、
それら、どんなに相手のことを想って行動したことも含めて、それも、その人個人の範囲内のペースだったりするわけです。
私は、これまでの経験則から、誰かのことをどんなに想って何かをしたとしても、
それを、ありがたがるかどうかは相手が決めるんだな、ということを、嫌という程思い知らされてきた経緯があるので(苦笑)、
自分がどんなに相手に良かれと思ってやったことでも、相手にとってありがたくないということがあったとしても、
それは至って普通であるという価値観を持っています。
よって、「何かをしてあげた」という自負を持っていたとしても、
相手から「いや、それはいらない」と言われた場合、それはそれでしかたないんだな、としか思いません。
そりゃ、喜ばれる方が嬉しいし、喜んでくれる相手と一緒にいる時間が増えるし、そういう相手と一緒にいる方が楽しいに決まってるわけですが、
「いらない」と言われても、それは相手が決めることなので、しかたがないのです。
ちなみに、それは、最強のストレスになるそうですね。
痛いし、辛い。だから、人は人と関わりたくなくなるそうです。
人を生かすも人であり、人を殺すも人である、という言葉を聞いたことがあって、その通りだと思うのです。
こういう価値観を持っているので、時として、私は私で、相手から差し出されたものでも「いらない」と選択する時はあります。
そして、それはそれで当然だと思っています。
ところが、断られることが、気に入らないという人もいるにはいるわけで(苦笑)、
私は私で、そこいら辺の奴よりかは、できるところまでは相手のペースに合わせるだけのキャバは持ち合わせているつもりですが、
私にも私のペースがあるわけで、お断りした時に、相手に憤慨されると困りますね(苦笑)。
お断りしているくらいですから、許容できる範囲ならお断りなどしていないわけで、
許容量を超えてまで、いらないものはいらないからお断りしているので、それはもうどうあがいてもファイナルアンサーなのです。
覆りません。
それが気に入らないなら、私のことなんて、ヒドい奴だと割り切ってもらって、あとはもう距離を置くくらいのことしかできませんね。
それはそれでお互いのためです。
ところが、そういう人は、私の役に立ちたいという欲求を持っているので、
これがまたややこしい(苦笑)。
私の役に立つことで自分の存在を認識したいので、私という前提がないと、自分の存在がなくなってしまうのです。
ほんな奴おるんかい?と思えるかもしれませんが、おるとこにはおったりするんですね(苦笑)。
誰もが自分のペースでいたいのだと思います。
相手のペースで生きていれば、自分のペースを我慢するしかないし、
自分のペースで生きたいのであれば、相手のペースを我慢してもらうしかない。
基本的にはそういうものだと思っています。
よく話し合って、などという程度の問題ではなく、ファイナルアンサーなのだから、話し合って解決できる範囲ではないのですね。
それが、屁理屈だ、子供だ、と言われても、もうどうしようもありません。
屁理屈で結構、子供で結構、と開き直るしかないわけで、お互い、自分の気にいるペースで生きていけばいいことでしょう。
せめて「幸せになってね。」と願って、さよならするだけですね。
誰もが、「人の役に立ちたい」「認められたい」「役立っている自分でいたい」「愛されたい」という類の欲求はあるのでしょうが、
時として、それは、誰かにとって大変迷惑で、大きなお世話で、激痛になるのと紙一重であることは、
私は私で自分に言い聞かせています。
いつもいつも喜んであげなきゃいけない相手は疲れます。
いつもいつも楽しんであげなきゃいけない相手は面倒です。
そういうリスクがあるから、私は、基本的に、チームだ仲間だと言ってはいつも一緒にいるよりも、一人で進めていく選択をしているのだと思っています。
そうすると、一人ということは、結局は孤独であり、孤立している状態になるわけで、
自分の思い通りに、自分のペースで物事を進めたいのでいれば、
孤立のリスクを覚悟しないといけないですね。
それでも、価値観が合って、一緒にいられる人や、
こんな私でも様々なご依頼を頂けるというのは、大変ありがたいことで、感謝しています。
だから、全力でやらせて頂くのは当然となるわけですね。
ただし、一緒にいてくれる方がいて、そして全力なのは、シュガーケースから顔が出ている「遠近顔出し画像」程度ですがね(苦笑)。
この画像が、ありがた迷惑な方、ゴメンなさい(苦笑)。