人は誰かに認めて欲しい生き物なのだから(笑)
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- 坪井式屁理屈
娘が祖母に会いに事務所に来ていたので、写真を撮ってもらいました。
撮った画像をチェックしながら、
「おぉ、パパかっこいいじゃん。パパかっこよくねーか?」
と聞いたら、
「ううううううううん・・・・、知らない。」
と言っていました(笑)。
カッコいいものはカッコいいと、もう少し素直な娘になって欲しいと思います(苦笑)。
人は、誰もが人に認められたい生き物なのだと思います。
認められるまで努力したり実績積んだりすれば良いのでしょうが、
自分の基準で、周りに認めて欲しいと異常とも思えるほどの欲求を持ったり、
あるいは思い通りに認められていないと実感した時点で、強烈なストレスを抱えたり、周りへ不満をブチかましたり、他人のせいにいたりする人はいて、とても面倒です(苦笑)。
最悪なのは、認められたいことそのものを目的に色んなことやりたがって、その為に周りを巻き込む人がいて、
目的が「自分が認められる」ことですから、周りの人のことなど何も考えていない人です。
そんなもん、誰も力を貸す訳がないので、余計離れていって、離れるものだからさらに認めてくれる誰かを探して、また離れていって、と泥沼にはまりまくっていきます。
こういうタイプは、自分の話だけを人に聞いて欲しくて聞いて欲しくて、言ったことを認めて欲しくて認めて欲しくて、でも、
一通り気が済んだらその日は終わりますが、また、変わらず同じような話になって、どこまでいっても満たされることなくブラックホールのように人の精気を奪っていきます。
見ていてとても見苦しく、辛い生き方をしているように見えて、関わった以上は何とか自分にできることはないかなぁ、とは思うに思って、できるとこまでは努力して関わりますが、
それでも、私は医者でも精神科医でもないので、最後は自分を取って、できるだけ会わないように心がけます。
その役目は、私ではなくて、別の専門的な方だと思うのです。
それもまた個性と割り切りますね。
私の経験則からすれば、認められている人というのは、認められたいと思って何かやっているのではなくて、何かやった結果、勝手に周りが認めている場合が多いです。
もし、そうだとすると、
不思議なもので、人は認められたいという欲求を持ちながらにして、
認められたいと思って、何かやっている人は、認めてもらえないし、あるいは認めてもらっていないと自覚して、
認めてもらうことなど考えずに、何らかの努力と何らかの実績を積んだ人を、周りの人が勝手に認めているという、
迷宮入りしそうな状態の中で、そういうのは成り立っているということになります。
まぁ、でも、そんなもんなのではないのでしょうか?
私はよくは知りませんが、よく言う、「手放すと手に入る」というのはそういうことなんだろうな、と思っています。
周りが「認める・認めない」というのは、周りが決めることですから、それは周りの人達の価値観に委ねられます。
ある人が認めたとしても、ある人はそんなものは私は認めない、ということはどこにでもあるでしょう。
そういう意味で、「認めて欲しい」というのは周りの価値観に合わせに行くということと同義です。
周りの誰かを気にして何かをするというのは、それだけにシフトすると、いつしか強烈なストレスになります。
よって、私は、自分の信じるやりたいことをやって、いつしか勝手に周りが認めている、という状態が最も望ましいと、一応今のところは思っています。
一応というのは、自分と他人という2つの軸は、どこまでいっても行ったり来たりする必要な要素なので、どちらも必要といえば必要になってしまうから、どちらからスタートするか?という意味で、ですね。
限定された誰かに認めて欲しいなら、徹底的にその相手の価値観に合わせ切ればいいことですが、
関わる周りの人達になんとなく認めて欲しい、あの集団で認めて欲しい、となるとかなり面倒です。
認めてもらえるか、認めてもらえないか、というのは大枠で言えば他人からの評価ですから、それそものもが虚ろで曖昧なのです。
例えば、私のように、廃業した実績の持ち主が、
「株式上場を目指します」と言った当時、私の言うことなど認めてもいなくて批判していた人が、上場した途端に発言を認めて耳を貸すようになる人もいるし、
上場に向かって努力している姿を認めて応援してくれていた人が、株式上場そのものには何の価値も見出さず、認めてなんていない人もいたり、
努力の過程も、上場実績もどちらも認める人もいたり、
そのどちらも、何も認めるに値しないとばかりに批判だけする人もいたり、
人というのは、文字どおり人それぞれで、それが良いか悪いかというものではなくて、そういうものだと思っているということです。
そういうような経験を繰り返して、自分は、何が嬉しくて、何が辛かったか?というような様々な具体事例を思い返すと、
自分は、他人に対しては、何でもいいから、まずは「認める」ということから始める、すなわち、その人をちゃんと見て挨拶するとか、握手するとか、ハイタッチふるとか、ちゃんと見て何かを反応することが良いと思っていて、そういう生き方が、自分にはとてもスッキリするし、
他人から自分が認められたら素直に嬉しいし、認められなくても、そのことそのものに憤慨したり、ムキになったりすることなく、そういう価値観を持った人なんだな、と思う程度でありたいと思っています。
と、言いつつも、現実には、娘に対して、
パパがかっこいいと思ったら、素直に認めて、
「うん、パパ、いつもかっこいい!」
と言えよ!認めろよ!と要求したい衝動に駆られるのでした(笑)。
そうです。偉そうに言ってる自論や主張などというのは、土壇場になればその程度のものなのです(笑)。