些細かもしれない選択の連続が人生をつくってるんだよ
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- 坪井式屁理屈
人は、ある出来事に対して何を思ってもいいし、思わなくてもいい、という選択肢を持っていていいと私は思っています。
仮に、何か思ったとしても、
思ったことを、言ってもいいし、あるいは、何も言わないという選択肢を持っていていいと思っています。
なのに、何かを言うわけです。
言っても言わなくてもいいのに、何かを言うという選択をした結果、何かを言うわけですね。
時に、嬉しかったり、感動したり、気分を害したり、何かを訴えたかったり・・・・・・・、
そういう何かを言葉にして発したり、こうして文字にして伝えたりするわけです。
誰かの発信に対して、どんな受け取り方をして、どんな感情を抱くのか、
あるいは、その感情を発信するのかしないのか、
全ては、情報を受け取った側に委ねられます。
時に、何かを思ったから、そのままの感情を言ってもいいのだろうし、
時に、何かを思っても、そのままは言わないこともあるでしょうし、
さらには、時と場合、そして相手によって・・・・、例えば限られた親しい人同士には言ったり、こうして公で発信したり、
そのバリエーションは多様であり、どこで何を言うかも、発信する人の選択次第です。
そいういう意味で、発言は自由なのだと思います。
私も、こうして日々ブログを書いたり、SNSで何かを発信していますが、
日々、心の中で思ったり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、腹立たしかったり・・・・、様々な色んなことが起こる中、
何を書いて、何を書かないか、という選択は、自分の中で一つ一つ選択しながら発信しています。
それは、何を書いても自由と言いながらも、誰かを想ったり、何かを遠慮したり、自分がどう思われるか等を意識しながら書くからであり、
誰かを想い、自分を思いながら、自分の主張を発信していくというのは、それは人として当たり前のことだと思っているからです。
本当に自由だから何を書いてもいいのか?という問題は、自由だからこそ、発信する人の人としての在り方が問われるのだと思うのです。
自由だからこそ、どんな人間なのかということを問われ、試されるのだと思うのです。
そして、そういう一つ一つの選択の連続が、その人の人生を創り上げていくと思うのですね。
重要に考えなければならないの問題は、誰かの発信や、やってくる情報に対して、自分は何故、そういう受け取り方をしたのか?あるいは、その思ったことに対して、自分は何故、そういう発信をしたのか?といった、
そもそも、その選択をしたのは、自分の何がそうさせたのか?ということを、しっかりと考えてみることの方にあると、私は思っています。
発信が自由であるが故に、
自分とは何者なのかが、言う事や、文章や、主張から、見事に露呈してしまうのが、時に何て残酷なんだろう、と思えてしまうことがあります。
一つ一つの選択は、日常の小さいことかもしれませが、
一つ一つの選択の連続がその人となり、その人の人生となるならば、
その一つ一つをさせた自分というのは、自分の何がそうさせたのかを考える、というのは、時にとても大切ではないかと思うのです。
一つ一つの感情や発信は些細とも思えるかも知れませんが、
その連続の中で今日という日を生きて、
そして、その連続の結果、誰もがいつかは死ぬのであれば、
結局のところ、どう生きるのか、いかに生きるのか、
どう生きたいのか、いかに生きたいのか、という、
根本的な死生観や人間観に関わる大きな問題だと思っています。
何をブログで書いて、何をSNSで発信しても、そりゃ勝手なんでしょうが、
人は人でまた勝手にどう受け取って、発信手が何者なのかを勝手に認識していくとするなら、
私は、私で、同じ発信するのなら、どういう人間でありたいかを考えていこうと思うのです。
水の上から見えるアホ面も、水の中で見えないアホ身体も、どっちも自分でありながら、
人からは水の上に出ている部分からしか判断できんよなぁ、などと思いながら、
まぁ、私の場合は、どっちからもアホにしか見えんからどうしようもないな・・・・(苦笑)、
などと、考えながら・・・・・・。