「できる」人は、「できない」自分を受け入れているんだよ
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- 坪井式屁理屈
私は「憧れ」を持つことは大切だと思っている一人です。
理由はシンプルで、具体的に「努力」するからです。
その対象に向かって、誰から何を言われるでもなく、やることを強制されるでもなく、勝手に努力するからです。
ウルトラマンになりたければスペシュウム光線の練習をするでしょうし、仮面ライダーになりたければライダーキックの練習をするでしょう。
絵が上手くなりたければ絵の上手い人のマネをするでしょうし、文章が上手くなりたければ文章が上手い人の文章を読み漁るでしょうし、伝わる話ができる人になりたければ話が伝わる人をよくよく観察して同じようにやってみるでしょう。
目に見える行為や作法から、目には見えない考え方や思考、人生観に至るまで、観察し、よく観て、話を聴き・・・・、最初はできるだけマネして、その人から学ぼうとするでしょう。
それが、ここでいう「努力」です。
そういう意味で「憧れる人」や「なりたい人」がいることは、成長過程の上でとても大切だと思っています。
ところが時々、変な人に出くわします(苦笑)。
「憧れ」は強烈に持つものの、大した「努力」もせずに、そういう人になりたいとだけ願い、でも、そうなれない自分の現実を目の当たりにして落ち込んだり、自分はダメだと思ったり、卑下したり・・・・・・。
そういう不思議な人います。
そういう人は、ほとんど何もしていません。自分の基準では「私はやっている。」と言うことはありますが、「やっている」というハードル=自分にOKを出す基準が低いのです。
絵を描いていないのに絵が描けるわけもなく、文章を書いていないのに文章が書けるわけでもなく、人前で話す練習をしていないのに人前で伝わる話などできるわけがないのです。
要するに「できない」から「できない」だけなのに、どうして「できない」自分を責めたり、落ち込んだり、悩んだりできるのでしょう?
「やりたいんだけど、できないんですよぉ・・・・。」などと言えるのでしょう?
私はそこがとても不思議なのです。
ウルトラマンや仮面ライダーになりたい子供は、ウルトラマンや仮面ライダーではない自分を自覚しているから、なれるようにマネして努力するのです。
自分の発信がうまく伝わらないと自覚しているから伝えられるようにマネして努力しているのです。
「努力」する人というのは、「できない」自分をちゃんと自覚しているのが前提です。「できない」自分をちゃんと受け止めているのです。
すなわち「できる」人というのは、「できない」自分をちゃんと受け入れているのです。
よって「できない」ことを目の当たりにしても、「できない」ことに憂いたり、自分を卑下したり、間違っても「どうして自分はできないんだろう・・・・。」などと悩んだり、「自分にできないわけがない。」と異常に躍起になったり、無理な行動を起こしたりはしません。
なぜなら「できない」自分を自覚しているから、「できない」のは当たり前のことなのです。
私から見て「この人なんでこんなことまでできるんだろう?」と思える人というのの共通点は、その人にとっては「まだ全然できていない。」なのです。
「できる」=「できていない」ということでしょう。
「言葉というのはとても便利な反面、これほど不便なものはない」と思うのは、同じ「憧れを持つ」という言葉でも、人によって捉え方がここまで違うのかと実感させられた時ですね。
何も行動しない奴が「できる」ようになる訳がないじゃないですか・・・・・・。
そうなれるための行動も具体的にしていないのに、「できない」ことを卑下するなんて、それは舐めているということですよ。
私はそう思っています。
行動の動機そのものが喚起される大きな一つが「憧れ」を持つこと・・・・・・・、
よって、もし成果出すまで成長したいなら、既に成果を出している「憧れの対象」はいるのかいないのかを見直してみるのは一つの方法だし、
もし「部下が思う通りに行動しない。」と嘆くトップやリーダーがいたら、果たして自分は部下から憧れられるだけの存在になっているかどうかを自問してみるのも一つの方法ですね。