人生の実体験から学ぶ、これからやってみたいこと

自分のビジネスモデルの独自性・優位性・正当性を、
自分だけではなく、客観性を持って、第三者に対して、
いかに、過不足なく、噓なく、魅力的で価値高く伝えられるかどうは、
とても大切だと痛感する時がある。
それは時に、営業行為であり、宣伝広告の表現であり、販促物の見た目であり、
店舗外装や看板であり、名刺一つであったり、
時に、会社説明会から、日々で言うなら、朝礼の場や、
通例の会議の場であったりするし、
時に、株式上場のプレゼンテーションの場であり、
時に、税務調査の場であったり、
第三者というのは、時々の対象者の意向によって、相手が望む何を差し出すか?は違ってくるけど、
それができるようになる方法の根本は、
①「何を伝えるか」=構想や設計という目に見えないもの
②「いかに伝えるか」=言葉・文字・表現という目に見えるもの
の二つに大別されるわけで、
準備しておかねばならないのは、
①をどれたけ事前に意図・設計して考えることと、
②の場数の練習をいかに多くして結果のフィードバックを得ることになり、
それを日々の積み重ねに落とし込むとなると、簡単に言うと、
考えて喋る、考えて絵を描く、考えて字を書く、考えて表現する、
といった日々の行為になるわけで、
だから私は、誰もいないのに独り言をよく喋っているし(笑)、
誰かいても独り言を喋っていて変な顔で見られるし(苦笑)、
こうして、どうでもいいと言えるブログも書いているし(笑)、
誰も聞いてないかもしれない(笑)FBライブも、表とオンラインサロン限定で、トータル1930日連続で続けているし、
どうでもいいと思われるラクガキもお絵描きも、
こうしてAI動画も作っては出していて(笑)、
それが時に成果に繋がると、どうやって成果を出してのですか?と、価値となり、方法となり、人に聞かれ、結果マネタイズされることもあり、
全く成果を出してないと、何でそんな事やってんの?意味ないでしょ、趣味でしょ、遊んでるだけでしょ、楽しんでるだけでしょ、いつまでそんなことやってんだ、と批判されたり怪訝な顔されたりするのだけど、
そういうことを繰り返してると、
結果や実績でしか人は判断しないのだな、という、現実も片方ではよく理解できるし、
もう片方では、人がやっていることの、本当に正しい評価など誰もできないのに、
自分のことは棚に上げて、他人の事を好き勝手喋って、評価・評論してないと自分が保てない愚かさも人間で、
それは、家業を廃業すれば批判を食らい、人は去り、
株式上場すれば賞賛や高い評価を受け、人は寄ってくる、
という、人生のリアルな実体験から、人なんてそんなもんだよな、みたいなことも良く分かっていて、
かくいう私も、結果、アウトプットされた実績や事実に対してでしか興味や認識をしない一人です。
そう考えると、失敗や成功など、結局のところ、複雑に絡み合った解読しきれない要素の組み合わせによる、
結局「運」なんでしょ、となるわけで、
①どうせ「運」なら、何もしないか、
②どうせ「運」だけど、やるだけやってみるか、
の選択に、その人の人生があるような気がするので、私はアホみたいに思われることだろうと、実験してみたいことはやり続けて、
何でそんなことやってんですか?と聞かれたら、答えは「アホだからです。」と言って、
本当にアホなのか、哲学的なのか、どっちでも取れるように、保険をかけて適当に言うのですが、
でも、その一言では、どっちも伝わらないことも経験上分かっていて(笑)、
「アホ」という単語の意味合いを、またこうして、いちいち共有したくなるわけです(笑)。
①「やりたいことは何ですか?」
②「やりたいことをやり続ける為に、時間とお金をどうしますか?」
③「それをあなたが伝えられますか?」
この3つ問いを、一人一人が考えるのは、これからとても大事なのではないか?と思っていて、
一人一人が、他人になんか言われたら、
「うるせぇな、ほっとけよ、他人のことはいいから、自分の事を世界で一番心配しとけよ。」
と自信をもって言えたら、みんな幸せなんじゃないか?と思っていて、
そういう絵本や、マンガや、アホ動画が作れたらいいな、と思っています。
成長とカッコ良さは何の先にある?

やるだけやっても、現実は、まるで鎖に繋がれたように、「がんじからめ」の「八方ふさがり」じゃねーか、
と思うことは人生のうちで何度かあるわけで、
でも、それを何とか越えることによって、より強固で成長する自分になる正比例も、
経験上、また理屈上はもう分かっている。
分かっているなら、成長したいなら、逆境やピンチに自ら向かえばいいのだけど、
逆境やピンチなど、わざわざ取りに行くだけのストイックさは、私にはない(苦笑)。
本能上、嫌なものはやっぱり嫌なのです(笑)。
私で言うなら、人生最大の逆境と成長のギャップは、
「家業廃業から10年で株式上場」
がそれに当たるのだろうし、キャッチにも説得力にもなり、
確かに、廃業がなければ上場はなく、
上場経験できたのは、廃業したお陰と、後になってみれば言えるのだけど、
意図して廃業したのではなく、頑張ったけど、そうなったからそうなっただけで(笑)、
でもそれで上場の成果があったのだから、もう一度、廃業並みの経験をして、成長しようとするかというと、
私はそこまでは、できないのである(苦笑)。
未来の事は、より良くしようと意図はしても、未来のことなど、未来にならないと分からないので、
結局のところ、今、目の前の現実に対して、逃げずに全力で取り組めというのが、丸まった陳腐な言葉になるのだろうな、と思うわけです。
ただ、動画のように肉体の成長が見込めるわけでもなくなった今、
残るは精神や心の成長に期待するしかなく、妄想イメージのみ膨らませるしかないとも思う今日この頃ですが(苦笑)。
一人の時間が取れるのか?一人の時間に何を意図して、何をしているのか?

誰も見てない中で、人知れずやってきたことが、
その人が磨いてきたり、深く掘ってきたことであり、
他人よりも、知識や知見や技術が培われるものなんだろうな、と思う。
対象が何であれ、社会でそれを評価されるのは、それがアウトプットされた時の他人の基準なわけで、それが現実だったりする。
他人から評価されたいなら、評価されるまで、淡々と磨き、時にアウトプットし続けるしかないのだと思う。
ちょっとやそっとじゃ、人は評価などしない。
まして、それだけにお金を払うまではいかない。
人知れずの時間を、人は時に勉強と言ったり、趣味と言ったりするのだと思う。
仕事の時間ではなく、社会に出でからの、少ない一人の時間に何をするのか?
無意識にグダグダしてないで、ちょっとは勉強しなきゃいかんのだろうな、と、
こういうことを考える時に反省するのです(苦笑)。