コミュニケーションの定義は人によって変わる(苦笑)

「コミュニケーションをよくとれ」
とはよく言われるのだけど、
コミュニケーションをとったが故に、問題が起きて、当初の目的や目標は、宇宙の果てまでクルクル遠のいて、孤立することなど日常的にあって、
コミュニケーションなどとらない方が良かったという事例はいくらでもあるのだから、
そうか、コミュニケーションというのは、より良くなることが前提と限ったことじゃなく、
まずは、コミュニケーションをとらない方がいい相手かどうかを確認する為の方法、
あるいは、選別をする為の儀式だったんだな、と言葉の定義を改めているのは私だけだろうか?(苦笑)
どうあれ、私は、やるだけやってみた結果、今のところコミュニケーション能力というのは相当に低いと自覚しています(苦笑)。
価値観の多様化、あなたはあなたでいいんだよ意識、情報量の多さ、複雑化、が普遍的なった今、
悩んでいるのではなく、挫折と絶望をしているだけです(苦笑)。
「考える」を「考えない」方が価値になる時代か?(笑)
今の時点での既存のアイデアとか発想というのは何かしらあって、
それを実現しようとして、実行してみる。
実行する経緯の中で、新たに気づくことがあり、次のアイデアや発想が生まれる。
この連鎖は生きていて、人社会の中で生きていれば分かります。
しかし、AIの導入によって、まるで予測しない偶然のアウトプットが、
元々実現させてかったアイデアや発想を超えてしまって、こっちの方がいいじゃん、ということは、
少し触ったり、遊んだ人なら、誰でももうすでに認識していると思います。
偶然の産物の価値の方が、もともと予測していた価値よりも高くなる確率が飛躍的に大きくなっていることを考えると、
アイデアが大事だの、発想力が大事だの、まるで自分の思考が価値の根本だと言いながら、
それは思い込みにすぎず、実は、AIによる比率の方が大きくなっているのが現実となる。
こう考えると、「AIを使いこなす側になろう」とか「プロンプトが大事」だの、いい気になってといるのは人間だけで、
人と人の間にAIが入ったが最後、
そこから先はもうAIに支配されるという現実はもう避けられないという予測は成り立つ、と私は思っています。
となると、それを前提とした上で、自分しかできないことを考える、となるわけですが、
考えたところで、AIのアウトプットの方が価値が高いという前提に戻ってしまうので、
そうなると、自分で考えたと勘違いしながら、何も考えてないアホなんだけど、
自分で考えてやったんだ、と自慢げに人に言い切れるくらい何も考えない人、
になるのが一番というのは選択肢の一つとして成り立つわけで、
私は、それで行ってみよう、と「考えて」います(笑)。
要するに、一言で言うと、「バカが勝つ」という、待ってました!と言わんばかりの、すごくいい時代になってきたと思っています(笑)。
「Sora2」は、何人まで動いて、何人まで喋るのか?
新しい機能は、何が新しくて、何ができるようになって、何ができなくなったのか、何が限界で、何に制限がかかるのか、
それを一旦認知するまでは、やりまくる、使い倒す、あるいは遊びまくってみる、ということなるわけで、
①認知するまで、どれくらいやるか、
②認知してから、何がしたいのか
に分けるとしたら、①の時点では誰もが楽しかったりして、
②の段階が目的になるなのだろうな、
とは思うけど、
②を明確にしてから、①に入るのか、
①をやりながら、②に気づくのがいいのか、
まぁそこは人それぞれでしょう。
そんな中、私は私で①と②が曖昧なまま、とりあえず、
新動画生成AIの「Sora2」で遊び始めている訳ですが、
意図的に何人まで動かすことができるのか?何人が喋ることができるのか?
は興味のあるところで、ここまではできるんだな、とやりながら思ったりしているところです。
TOSBOIワールドの仲間たちが一気に動き出しそうで、楽しくなりそうです。