積み重ねてきた者しか言っちゃいけない言葉ってあるな(苦笑)

映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977年・アメリカ映画)のオープニング、
「ジョン・トラボルタ」がペンキ缶を持ってブルックリンの街を歩くシーンは、最高にイカしてて憧れました。
こういう一歩一歩を歩むシーンというのは、
まるで、「人生は歩いてきた日々の軌跡の積み重ね」で決まるってもんさ、みたいなイメージがあって、
影響を受けてか、私も、人生の価値というものは、その人の経歴の事実に宿っていると思っています。
いつか、歳を取った時に振り返ることができたらいいな、とは思っていて、
もう少しで60歳になろうとしてる中、どんな人生の道のりだったのだろう?と振り返ってみるものの、
落としたきたはずのペンキの跡など跡形もなく消えてしまっていて、
いや、正確には、現実に大したものなど何も残していなくて(苦笑)、
いや、そもそも、ほとんどは忘れてしまうような空虚な日常を垂れ流していただけだから、
積み重ねもへったくれもないわけで(苦笑)、
反省して、せめてあと10年は、自分に積み重なるようにせんといかんな、と思っているところです(苦笑)。
そろそろノンビリしたい、などと言えるのは、ちゃんと頑張って生きてきた人だけに与えられた権利なのだろうな・・・、と最近はつくづく思うのです(苦笑)。
あぁ、それにしても、グダグダしていたい(苦笑)。
「AIを使うAIロボットプロジェクト」開発途中経過②(笑)

かねてから計画している
「AIを使うAIロボットプロジェクト」
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
https://tosboi.com/diary/17657/
https://tosboi.com/diary/17753/
ですが、
開発は順調に進んでいます(笑)。
しかしながら、ここに来て重大な問題に気づきました。
私と等身大のロボットの頭部に、私が入るには、私が大き過ぎることです(笑)。
これでは巨大ロボになってしまいます(笑)。
かくなる上は、私が小さくなれるように、
1960年代のアメリカテレビSFドラマ『ミクロ決死隊』(原題:Fantastic Voyage)の「新型ミクロナイザー」か、
1960年代の日米合作アニメ『001/7おや指トム』(英語表記:TOM of T.H.U.M.B.)の「ちびっ子光線」
をさらに開発するしかありません(笑)。
現代スペックを使いこなすには、まだまだ事前の研究開発が問われそうです(笑)。
この難関し必ずや越えてていきますので、これからもどうかご期待下さい(笑)。
AI時代に、「AI」と「感情」の相関関係に見悶える(苦笑)

「AIで作った文章は、やっぱりAIで、何か味気ないから、そこに、自分の感情とか、思想とか、想いを入れないと、その人の発信にならない。」
という類のことをはよく聞こえてきて、
「なるほど、そういうもんなんだなぁ。」
とは思うものの、
私は、私の感情や思想や想いなどというものを、聞きたいと言ってくれる人を知らない(苦笑)ので、
私がそういうのをブチ込んでみたところで価値が上がるとは思えなくて、
いや、むしろ、余計に嫌われて、人が離れていく一方なのではないか?と疑念が沸いて辛いです(笑)。
興味がある人や、何かを成しえた人ならまだしも、
興味がない人や、何者でもない人の情報発信は、そもそも見てもいないわけで、
そこに、いらん感情や思想や想いなど入れられたところで、見ないものは見ない(苦笑)。
他人のいらん感情など、煎じ詰めれば「愚痴」か「自慢話」に集約されるので、
聞いている時間は、共感を依存されることによって、自分の感情を奪われるのだから、しんどいのが当然で、
あるいは、凡人の本人だけが言いたい思想など、飲み会の聞きたくもない相手の自慢話や説教程度に屁の虫ほどの価値もなく、
聞かれているならまだしも、聞いてもいないそんなもんを情報の中にブチ込まれたら、
そもそも見ないものを、もっと見なくなる、いや、近寄りたくなくなるリスクが高くねーか?と思ってしまうわけです(苦笑)。
だとすると、圧倒的実績を持っているか、他人から興味を持たれるだけの何かが必要となるわけで、
それは、AI時代だろうとなかろうと、昔からの本質論と変わらねーじゃんとなって、
また振り出しに戻って、じゃあ、どうしたらいいんだよ、と見悶えているところです(苦笑)。