「汚い見た目の自分」から気づくアウトプットの本質と、これからのビジネス構想

頭の中で考えていることを、
言語で「過不足なく」「分かりやすく」「魅力的に」「価値高く」伝えられるかどうは、
ビジネス市場における「伝える力」「プレゼン能力」として、とても重要なスキルだと私は思っています。
しかしながら、例えば、私が20年以上に渡り研究してきた大切ななことがあったとして、
頭の中は当時の若い頃のままで、伝えるときは今だったりすると、
頭の中は若いままで、伝える時は汚いジジイという状況になります。
20年という期間は、長いとも取れますが、本人にとってはあっという間だったりするので自覚ができません。
それは、「まだ自分は若いと思っている痛いジジイ」とか、「老害」とされる人になるということであり、
そうなると、結局のところ、どこが重要かになると、
何か伝えたい、あるいは伝える側の立場なのであれば、
スタート時点として、何より大事なのは「見た目一択」ということになります。
「『見た目』なんて関係ない、大事なのは『中身』だ。」
と言いたくなる時や、それが正しい時もあるでしょうが、
そう言う人で、成果を上げている人は、私は見たことがなく、
逆に、成果を上げている人は、何も言わずに、人知れず、側を意識したり、意図していたりします。
考えてみれば、人は本能として、綺麗なものを好み近づき、
汚いもの・臭いものを避け、時に排除するもので、
「見た目なんて関係ない」
と言っている人も、異性への興味や行動は、その通りにしているのです。
私なんて、スタートの本音は、それしかありません(苦笑)。
私がSNSを知り始めたのは、今からもう20年以上前であり、
その時は、個性を出す上で、「顔を出す」というのは、とても重要な手法の一つであることは分かり、継続してきましたが、
20年の月日が経てば、何の努力もせず、何も手を加えていなければ、経年変化として汚くなっているのが普通で、
当時のまま、何もせずに、ただ「顔を出している人」も知っていますが、やはり、皆、いつの間にか、ただれて汚くなっています(苦笑)。
互いに知っているからいいようなものの、
今日知り合った人から見たら、それは単なる汚いジジイとババアという現実に他なりません。
もちろん、年齢と共に、その生き様が顔に出て、益々素敵になる人もいるでしょうし、それは理想ですが、
そう見える人に話を聞いたり、よく見ていると、
やはり、そう見えるような努力や、手入れをしっかりしているというのが実際だったりします。
というわけで、
①顔は汚くなるは、
②手入れをいるのは面倒くさいわ、
③でもこれから10年は何かを伝えてビジネスしていこうとするわ、
という不遜なことを考えている中で、自分の代わりのキャラクターに動いてもらったらいいんじゃないか?と思って、
こうして動画にしたら、どうなるんだろう?という実験をしているのを、
「遊んでるだけでしょ。」
と聞かれた時に、あたかも考えていたかのような言い分にしています(笑)。
AIとAIの間に入る無価値な自分といかに向き合うか

AIに使われないように、AIを使いこなす側になろうとして、
どうしたらAIが使いこなせるようになるのか?、を誰に聞いて分からなくて、
そうだ、こういう時にこそAIに聞いてみればいいんだ、と思って、
使い方をAIに教えてもらって、あるいはプロンプトまで出してもらって、使えるようになって、
これはいいぞ、と思って、それを人に吹聴しようと、
「AI使いこなしセミナー」
を開催した場合、それは、AIに使われているのか?、AIを使いこなしているのか?(笑)
自分という存在を通過した時に、誰かにとっての何らかの価値が上がることを、価値といい、
それが売れた時の粗利率となる。
この構造からいけば、「AIが使えるように、AIに聞いただけ」なら、
昔の問屋不要論のように、不必要なコストになるだけとなり、むしろいない方が良い存在である。
「利益というのは」→「自分を通した時に」→「価値が上がった分」
というビジネスの基本構造が変わらないとしたら、
その基本構造に立ち戻ることで、「AI時代に自分が何ができるのか?」の選択肢やヒントが生まれるわけで、
その一点においてよく考えるのは、とても重要だと思っています。
よく、
「AIに乗せて、自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性が必要だ。」
みたいな聞いた風なことはよく聞くし、なるほどなぁ、とは思うけど、
では、その
「自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性」
とやらで、過去、そこだけをアウトプットして有料化されたことがありますか?
と自らに問うと、口で言うのは簡単だけど、私は自信はないです(苦笑)。
私の説法など、お金払って聞きたいですか?(笑)
私なら、私の説法はいらない(笑)。むしろ、ない方がいい(笑)。いや、あったら聞くだけ時間の無駄なので迷惑(苦笑)。聞きたくない(苦笑)。
昔、自分の読んだ本を、社内セミナーで、やたら自分が教えたがる人がいたけど、
いや、お前のフィルターなんてどうでもいいから、その本とっとと読ませろよ、と思っていたことがあります(笑)。
言いませんけどね(笑)。
というか、私も、今の仕事は、そうやってるだけに極めて近いだけなんで(苦笑)。
自分を通す価値だと思っているものがあったとしても、それが他人にとって無価値であれば、ない方が良いわけで、それが市場経済における現実です。
じゃあ、まるでないのか?というと、可能性は十分にあるわけで、
それは、昔、『お茶くみ』を頼まれた社員が、
「私は『お茶くみ』なんてする為に、この会社に入ったわけじゃない。」
と不貞腐れて、不機嫌にお茶を出すウスラバカと、
「同じ出すなら、私を通して少しでも相手にいい気持ちになってもらおう。」
と、自分に何ができるかと工夫して出す人と、どっちが市場価値が上がって、他人から必要とされていくか?という一昔前の例え話と変わらないと思うわけです。
人のビジネスモデルに深く深く入り込んで関わっていくと、もはや、中小・零細・個人にとっては、それくらいしか残っていないのだろうな、とつくづく思うわけです。
そう考えると、ブログで「ウスラバカ」などという言葉を発しているだけで、もうダメなんだろうな、と反省して(苦笑)、
反省するなら消せよ、となるのですが、ちょっと言いたくなる自分に負けるというジレンマ(苦笑)と、
どう向き合い、いかに自分を処理していくかが重要課題なんだろうなと、個人的には思っているところです(苦笑)。
都合よく人を使い分けする自分から気づくAIへの依存(苦笑)

①一人が好きという人もいるし、
②皆と一緒に楽しいのが好きという人もいるけど、
完璧に一人の人生を選択している人は見たことないし、
(いたとしても、完璧に一人なら、見れるわけがない(笑))
皆と一緒にいるのが好き、仲間が大事、友達っていいよね、と日頃言ってる人が、
一人の時間が欲しい、と刹那的な感情で言う時もあって、
③要するに、自分の都合によって、他人を使い分けして、
自分にとって都合の良い人の事を「いい人」と認識しているだけ、
というのもあって、
私はどれかというと、完璧に③だと思っています(苦笑)。
でもそうやって都合よく人を使っているだけの自分の愚かで滑稽さを自覚しないと、
できる限りでいいから、他人を都合よく雑に扱うようなことはしてはならないという自覚もできなくて、
まして、軽々しく「相手の立場になれ」とか「人の思いを知れ」などと、分かったようなことは言えなくて、
時に「ツヴォイさんは自己中だ。」「ツヴォイさんはワガママだ。」と言われた時に、
「はい、そうです。」と自信を持って言えないのです(苦笑)。
自分は人から雑に扱われたくないけど、自分も知らぬ間に人のことを雑に扱っているのだな、と思います。
そういう話をすると、「人間なんて皆そんなもんでしょ。」と丸まってしまうのを聞くと、
そらまぁ、そんな面倒なことをいちいち考えながら生きてかなきゃいけないなら、AIの方が楽で依存もするわな、と思うのです(苦笑)。