ツヴォイ式お絵描き118「デニムジャケット」01
若い頃からレザーやデニムといった天然素材に移入しています。
理由は色々あるのだけど、その代表格は、
「経年変化によって朽ちていく美しさ」に魅力を感じてしまっているからです。
昔観た古い映画に出てくる、幾多の魅力的な俳優のスタイル、
越えてきたからこそ醸し出される大人の色気や魅力に、そのまま強く影響されてきたのだろあと思います。
そんなムービースター達に憧れては、はやく大人になって、カッコいいオッサンになりたく、
それは、まんま標榜する人生観でもあり、自分の体験・経験が、傷や皺が刻まれていくレザーやデニムのように、
年齢と共に美しい魅力を放つような人生を創りたいと思ってきました。
ただ、その実態は真逆で、自ら、ギャアギャア・ワチャワチャと落ち着きなく騒ぐばかりで(苦笑)、
故に反面での憧れは、自我を露呈することなく、
寡黙で、ただそこに存在するだけで、美しく、雄弁にその存在が美しく放たれ、
気が付けば惹きつけられる存在感を持たれるような人が憧れだったりするわけです。
そんなことを人生の断片で時々感じながら、いつしか年月は経ち、年齢だけはそういう領域に入ってきたと感じるこの頃です。
しかし、「朽ちる」条件を満たし始めてきた今、改めて、レザーやデニムが似合うと思いきや、
単なる汚いオッサンが、汚い服を着ているだけという、
「汚い」×「汚い」
をいう悲惨な最強法則を生み出すことになるのではないか?という疑念が出てきた(苦笑)。
さて、どうしよう(苦笑)。
こればっかりは、外見ではなく、中身の問題だから、もうどうしようもないのか?(笑)
いつまでも外見上で若々しくいたいという願望はまるでありません。
最先端でピカピカで流行りの外見に対して、あまりに興味がありません。
しかし、かといって、朽ちたレザーやデニムのような美しさが醸し出される中身を醸し出すことができないとしたら、
これは、もう相当に、本気で考えねばならないと思いながら、
レザーやデニムを見つめるながら、もう後がないと、ここに来て焦り始める昨今です(苦笑)。
いよいよペラペラの人生のツケが回ってきたような気分です(笑)。
今日の輝きに、未来への想いを馳せたい
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と思って、聞いてみたら、今日はスーパーブルームーンなんだってさ。
とNASAが言うとった、
らしい、
とも聞きました(笑)。
2037年って、何やってるんでしょうね。
枯れて「なくなる」ことと、枯れて「できる」ようになること
暑いからといって、半パンを履いているのは、どうやらオッサンの象徴らしい(笑)。
小学校6年生まで、母親の訳の分からない方針で、真冬も含めて年中半ズボンを強いられていたので、
半ズボンを履くのは若い証だと、知らぬ間に、無意識に思い込んでいました(笑)。
そうか、オッサンなのか、と思いながら、自分の姿を見ていたら、
半ズボンじゃなくても、見てくれから、顔面から、まだら白髪から、もう何から何まで、醜いオッサンじゃねーか、と、
ここに来て改めて自覚するに至りました(苦笑)。
カッコつけた自分の写真を何枚も取っては、ブログやSNSに出したりと、
私はナルシストの自覚こそしているわけですが(苦笑)、
あげく、特にここ数年は、毎日ライブ動画を自撮りアップしていて、昨日で1230日連続で配信していて、
言ってみれば、毎日、自分の顔面を見ながら、誰も聞いてないようなことを自分で話して、
それを見返しては、自分のことを客観視してるわけですが、
新たな視点が入るだけで、我ながら、よくもまぁこんなこと恥ずかしげもなくやってんな、と自分で思う程、
もう、枯れて、朽ちて、老いていっている醜い自分を見せつけられるわけです(苦笑)。
仕事上、人生のビジョンとか、それに則った、3年後とか5年後とかの具体的な目標や、
さらには叶えるべくの行動計画までを、自分にも他人にも考えるわけですが、
自分の5年後というものを改めて考えるに、
一体、どんだけ、枯れてんねん、朽ちてんねん、老いてんねん、と思うわけで(笑)、じゃあ、どないしたらえぇねんと(苦笑)。
気がつきゃ58歳で、もうすぐ60歳を目の前にしながら、
考えてみたら、30歳とか40歳とかで平気で出来ていたことは、できなくなっていたり、
そんなことより、そもそも意欲そのものが湧かなくなっていたりするのが、最大の「できなくなっている」ことだったりするわけで、
だとしたら、「前の自分と同じ」という気持ちでいること自体が不自然なことと言えます。
歳をとっていくというのは、
①できていたこと、できると思っていたことが、もうできなくなる
②まだ役立つと思っていることが、相手にとっては無価値となっている
③必要とされたい・望まれたいと思っているけど、誰からも必要とされていない・望まれていない
という残酷な現実を、外見からも内面からも、世の中という鏡を通して、真正面から見せつけられていく、
という恐怖と向き合い続けるということとも言えるでしょうね。
私は、これはごく自然で普通で人間らしいと思っていて、
特に無理して抗うつもりはなくて、
このまま、「枯れて・朽ちて・老いていく」ことは受け入れていけば良いと思っています。
自分には「できなくなったこと」を明確に自覚しないと、
いつまでも、「できていたことが、できなくなったのに」、
無理して、「できていると自覚したい」が為の、
執着としての「抗い」というのは、美しいとは思えない。
例えば、「若さ」みたいなものは、取敢えずの見せかけは、何とかなるかも知れませんが、
脳や身体機能というものは、もうどうしようもないわけで、それはそれで受け入れていくという方が、
潔くて美しいと思えてしまいます。
まぁ、それは生き方ですから、好きにすればいいとして、
問題は、社会でまだ活躍したいという意欲を持っている場合の、「自分の市場価値」についてです。
「できなくなったこと」を自覚しないと、
逆に「できるようになったこと」に気づくことができません。
枯れて・朽ちて・老いたが故に、「できていたことが、できなくなった」ことに執着するあまり、
戻らないことを戻そうとして、それはそのまま不自然で、何より不効率といえます。
「できていたことが、できなくなった」「あったものが、なくなった」
ということは、裏を返せば、
「なかったことが、できるようになった」「なかったものが、手に入っていた」
という可能性もあると言えます。
そちらの可能性に目を向けて、「今できること」に着目していく方が、明らかに有効です。
例えば、以前より穏やかになった、とか、器が大きくなった、とか、人の気持ちが分かるようになった、とか、
目の前のものに情熱を感じなくなった分、物事を俯瞰的に見れるようになった、とか、
そういうことです。
実際に、カッコ良く、自然に、素敵に、枯れて・朽ちて・老いていきながら、でもとても美しく、
多くの人から支持される人はいたりします。
よって、半ズボンを履いて、枯れて・朽ちて・老いていき、あったものがどんどんなくなっていくだろう私にも、
きっと、新たに「できる」ようになっていることがあるわけで、
(正確には「あるはず」(苦笑))、
そういう、自分という残酷な鏡から目を背けずに、
美しく、枯れて・朽ちて・老いていきたいと、思うわけです。
新たにできるようになっていることは、必ずあるのですから、そちらで勝負していける、3年後や5年後にしていきたいですね。
そういう抗い方なら、カッコ良くて、美しいと思うわけです。
正確には「あるはず」という理想と期待なだけで、それが何かはまだ知らんですけど(苦笑)。