ツヴォイ式お絵描き119「スタジャン」01
暑くて長かった、このままずっと続くと思っていた今年の夏でしたが、
名古屋は、昨日あたりからすっかり涼しくなりました。
これくらいの気候になると、頭の中に何が映像化されるかというと、
私の場合は、レザージャケットと、もう一つは「スタジャン」です。
「スタジャン」というのは「スタジアム・ジャンパー」の略称ですが、
略すも何も、そもそもが和製英語で(笑)、最もアメリカを感じさせるアウター衣料でありながら、
本場アメリカでは全く通じないらしく(笑)、
本来は、「アワード・ジャケット」「バーシティ・ジャケット」「レターマン・ジャケット」と呼ばれているわけですが、
とは言え、私は日本人で、80年代の彷彿させてくれる青春の響きのまま「スタジャン」とずっと呼んでいます。
中学校時代には、私は訳も分からず、日本製の「ボブソン」(笑)のブルーのメルトン地で白のショルダーレザーのスタジャンを買ってもらって着ていましたが、
ボーイスカウトの集会に着ていった時に、
「ツボちゃん、これスタジャンじゃん!これ、今一番の流行りじゃん。」
とオシャレに興味がある友人が、移動中の地下鉄の中(笑)で言われたことが記憶にあるので、
やはり1970年代からのアメリカへの盲目的な憧れと共に、ファッションとして日本に入ってきていたのでしょう。
大学で東京に出た1983年当時は、このスタジャンが大ブームになっており、本場アメリカ製の古着や新品は当然ながら、
学校のチームやサークルでお揃いで作ったり、果てはDCブランドから、何から何までのアパレルブランドが、本格的なものから「なんちゃって」のものまで製品化されていて、
街にも大学にもスタジャンを着た若者が溢れかえっていました。
その頃には、私はすっかりアメリカ映画の世界に影響されており、
最もアメリカを感じさせてくれるアイテムの「スタジャン」にも、ご多分に漏れず強烈なカッコ良さと憧れを感じ、物欲の最高峰となっていました。
渋谷「バックドロップ」から始まり、原宿・アメ横の古着屋さんに足しげく通っては、
その無尽蔵ともいえるバリエーションを知る程に、指をくわえて眺めては、
「夢は世界中のスタジャンをコレクションすること」(笑)ばかりに
アルバイトでお金を貯めては、その世界中のいくつか(笑)を手に入れていました。
このアイテムだけは若いうちだからこそ似合うという思いから、年が経つと共に、ほとんどは手放してしまいましたが、
今思えば、当時買ったものの中には、かなりの希少で貴重なものもあって、
いまだにそれを思い出しては後悔しています(笑)。
「スタジャン」を見ると、人格形成に大きな影響を受けた青春時代の出来事や出会いや、様々な当時の風景や思い出が蘇り、
それは、今の私の原型や、ビジネス観にまで強く影響されていることも、
それら全部ひっくるめて、このアイテムには、いまだに、そして永遠に想い入れが強いのかも知れません。
ちなみに、このイラストは「スタジャン」らしい面が気に入っているタイプの雑誌の切り抜きを描いただけで、所有していたわけでもありません(笑)。
得るも失うも、その前に自覚する驚愕の現実(苦笑)
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久しぶりの「こだま」で移動です。
ってか、ただ「ひかり」に乗り遅れただけなんだけどね(苦笑)。
まぁ、のんびり行こう、みたいに書けばいいんだろうけど、乗車時間は大して変わらない(笑)。
コロナ以降、リモートと、事務所での仕事がほとんどになって、
ほとんど移動は無くなって、仕事での時間対効果は圧倒的に効率的になったのだけど、
逆に言えは、移動時間を失ったとも言えますね。
じゃあ、移動時間に何をやってたか?を考えてみると、
①ボーっとした時間
こんなもんは、事務所にいて、空いた時間もボーっとしてるわけで(笑)、
「ボーっと」は変わらないのだけど、移動中の「ボー」と、
事務所の「ボー」のタイプが違うことに、こうして移動していると気づく(笑)。
②情報発信する時間
以前は移動時間中に、こうしてブログを書いたり、書き溜めていたのだけど、
事務所にいると、ブログを書く時間をわざわざ取らなきゃいけないわけで、
ブログを書く時間が圧倒的に減った。
③情報収集
移動してると、じっといていても、周りが動いたり、自然の変化が見れたり、色んな人がいたり、変な人がいたり(笑)して、
意図しない間に情報が入ってきて、それに脳が反応しているわけで、
良くも悪くも影響される時間がなくなっている。
あたりになる。
だとするとだ・・・・・、
①そもそも「ボーっ」と生きている(笑)
②そういう奴が情報発信したところで、大した意味がない(笑)
③大した意味のない情報発信なのだから、その為の情報収集したところで、それそのものに意味がない(笑)
となるわけで、
「得るものがあれば、同時に失うものがある」
みたいなことが言えると思ったけど、
得るとか、失うとかの次元の問題ではなく、
存在に意味がない、あるいは、そもそも何も「無い」、
すなわち生きている意味がない(苦笑)、
という、究極かつ最悪の現実に気づく移動時間になるのでした(笑)。
どうしたらいいんだよ(笑)。
「考える」を考えると「何も考えていない」自分に行き着く(苦笑)
考えてるつもりだけど考えていない?
私は、一応何かを「考えている」、と自分では(苦笑)思っていますが、
視点や切り口が変わったり、よくよく考えてみると、
「あぁ、何も考えていなかったな。」
と思うことがよくあって、要するに何も考えていないんだな、と自覚することは、生きながら頻繁にあります。
(人生のほとんどがその状態と言ってよい(苦笑)。)
でも、何となく「考えてるフリ」だけはしようとする自分もいて、
恐らくそれは、何も考えていない、あるいは考えることができない人間だと思われたくないからだと思います(笑)。
それは「考えている」と言えるのか?
面白いもので、
悩んでいても、考えている、ということもあるし、
何かに腹を立てていても、考えている、と自覚していることもあるし、
誰かの話を聞いている状態でも、私は今考えている、と思い込むなど、
何かしら脳を使っている状態があれば、自分は何かを考えている、と錯覚という自覚をしていると言えます。
「考える」定義を決めておく必要がある
仮に「考える」というのを
「問題・課題を解決する為に何をしたらいいのか?を工夫したり、思考して、具体的な一手を決める」
ということだとすると、
悩んでいても何も解決しないし、怒っていても何も解決しないし、聞いていても何も解決しないので、
それは「考える」とは言えないと思うわけです。
「考える」ことが大事なのは知っている
昨今のビジネス環境において、この「考える」ということがいかに大切かは重々承知しているのですが、
ちょっとくらい考えては、そのうち考えるのが面倒くさくなって(苦笑)、結局考えなくなるので(笑)、
イコール、私は何も考えていない、と自分に結論づけられます(笑)。
習慣化された日常を、ただ快楽と刹那的な感情の赴くままに、ただ生きているだけで、
その範囲でちょっとは何かを考えていることを「考えている」と言っているだけでしょう。
「考えろ」と言えば「考えられる」ようになるのか?
子供の頃から社会に出てからも、よく、「考えろ」と他人言われることはありましたが、
考えることができない人間に「考えろ」と言えば、「考えられる」ようになるのか?
というと、私は無理だと思っています(苦笑)。
その人なりに何かは「考えて」、何かの発言なり、行動なりをアウトプットしているのだから、
一応その人なりに「考えて」いると私は思っていて、
となると、「考えない」人に「考えろ」と言えば「考えられる」ようになるのか?というと、
そうじゃないから、私のような今の状態があるわけで(笑)、
だとすると、『「考えない」人に「考えろ」という人』は、「何も考えてない」人、
という論法が私の中で成り立ってしまっています(苦笑)。
「考える」段階ごとの「考えていない」
ビジネスシーンで、「次の行動の一手をどうするのか?」において、AとBで意見が分かれて、揉めることはあります。
それは、まだ双方が「考えた結果」で発言しているわけだから、まだマシとも言えます。
でも、あまりに相手が譲らないので、
「分かりました。そこまで言うなら、あなたの意見でいいので、それで成果が出せるのですね?じゃあ、それであなたがリーダーとなってやって下さい。」
と言うと、途端に引くような相手を見ると、私は、
「あぁ、こいつ、何も考えてなくて、ただ喋ってるだけだったんだな。」
と思い、次の段階の「何も考えていない」状態を認識してしまうこともあります。
「感情」と「考える」は違う
そこまで言うなら、自分は何かを喋る時に、そこまで考えて喋っているか?というと、間違いなくそうではなく(笑)、
ただ、その場の思い付きや、感情の赴くまま、ただ言葉を発したり、喋っているだけなので、
要するに、「私は何も考えていない」という結論付けをしておいた方が、つべこべ考えなくても良い、という結論です(笑)。
まぁ、それだと、日本語とかの言語を使っているだで、犬とか猫とかサルが吠えているのと変わらないわけで、
それはそれで「ヒト」としていいものか?という新たな「考えもの」が出てくるのですが(苦笑)。
「考える」第一段階で考えていない
そもそも、「問題・課題」が明確か?
その第一段階を、まずそもそも「考えている」のか?というと、
ほとんど明確になっていないまま、何となく困っているだけ、だったりします(笑)。
まずは、ここを明確にすべく「考える」ことから始めないといけないのでしょうが、
それすらも「考える」のが面倒くさかったら、もう一体どうしたものか?と(笑)。
「考える」の第二段階で考えていない
次に、「問題・課題」が仮に明確なったとして、
それが目の前に出てきた時に、解決すべく、いよいよ考えないといけいわけですが、
それもまた考えてることなどできなくて(笑)、
ただ困り続けて、悩み続けて、日々が過ぎ去り、
そして、
「こんなに考えているのになぁ。」
と考えている思い込みをするスパイラルへと入り込んでいくのです(笑)。
自分で「考える」という不遜
そもそも、自分で考えて解決できないから、困っているのであって、
困っているということは、その時点で、
「自分で考えたところで、解決などできない」
と認識しておく方が健全です(笑)。
自分で「考える」目的は何か
ということは、「考える」というのは、解決が目的ではなく、
「自分は考えているのだ」と自覚することが目的だったりするわけだから(笑)、
実は、問題・課題の解決に対しては極めて不効率であり、そして、永遠に解決しない選択をしていると言えます(笑)。
人は自分のしていることを、自分で何とか肯定化したいのですね(笑)。
自分で「考えない」ことの効率性
だとすると、自分では「考えない」ことそのものが、最も良い方法であり、
自分で「考える」などというクソ面倒くさいことから、解放もされるわけで、
それが一番いいのではないか?という仮説が成り立つわけです(笑)。
「考える」の仕分け
ここので書いてきて、同じ「考える」でも、分類ができることに気づきます。
①問題・課題の解決が目的であれば、自分で考えない。=仕事など成果を前提とした効率性・目標達成
②自分で考えることが目的なら、好きなだけ自分で考える。=趣味や自己満足や自我や人からどう見られたいかの欲求
この二つです。
「考えてる」と見られたい私と、何も「考えていない」自分
この二つがあるとしたら、私はほとんどが後者だったりします(笑)。
要するに、私は「何も考えていない人」という自覚だけはできるに至ったということです(笑)。
ですから、私は人に、
「お前、ちゃんと考えてんのか?」
と聞かれたら、
「いいえ、何も考えずにただ生きています。」
「ただ、考えている人に見られはしたいです。」
と正しい見解を答えようと思っています(笑)。
ただ、これが分かったとしても、悩みや不安、問題や課題に対する解決ができないことに何ら変わりはありません(笑)。
じゃあ、どうしたらいいのか?
については、このブログの続きで書いていくことにします。
何しろ、自分は「何も考えていない」ことが分かるだけでも、これだけ長文にしないと自己理解ができないくらい、
何も考えていない程度なのですから(苦笑)。