AI時代に、「AI」と「感情」の相関関係に見悶える(苦笑)
「AIで作った文章は、やっぱりAIで、何か味気ないから、そこに、自分の感情とか、思想とか、想いを入れないと、その人の発信にならない。」
という類のことをはよく聞こえてきて、
「なるほど、そういうもんなんだなぁ。」
とは思うものの、
私は、私の感情や思想や想いなどというものを、聞きたいと言ってくれる人を知らない(苦笑)ので、
私がそういうのをブチ込んでみたところで価値が上がるとは思えなくて、
いや、むしろ、余計に嫌われて、人が離れていく一方なのではないか?と疑念が沸いて辛いです(笑)。
興味がある人や、何かを成しえた人ならまだしも、
興味がない人や、何者でもない人の情報発信は、そもそも見てもいないわけで、
そこに、いらん感情や思想や想いなど入れられたところで、見ないものは見ない(苦笑)。
他人のいらん感情など、煎じ詰めれば「愚痴」か「自慢話」に集約されるので、
聞いている時間は、共感を依存されることによって、自分の感情を奪われるのだから、しんどいのが当然で、
あるいは、凡人の本人だけが言いたい思想など、飲み会の聞きたくもない相手の自慢話や説教程度に屁の虫ほどの価値もなく、
聞かれているならまだしも、聞いてもいないそんなもんを情報の中にブチ込まれたら、
そもそも見ないものを、もっと見なくなる、いや、近寄りたくなくなるリスクが高くねーか?と思ってしまうわけです(苦笑)。
だとすると、圧倒的実績を持っているか、他人から興味を持たれるだけの何かが必要となるわけで、
それは、AI時代だろうとなかろうと、昔からの本質論と変わらねーじゃんとなって、
また振り出しに戻って、じゃあ、どうしたらいいんだよ、と見悶えているところです(苦笑)。
違う他人との面倒くささより、世の中が全部自分と同じほうが嫌だ(笑)
1988年に大学を卒業して、東京の当時の大手アパレル会社に就職し、パリコレブランドの営業担当になりました。
それまでの大学生活では、屁の虫にも至らない自堕落な生活をしていた私にとって、
赤羽駅からJR埼京線に乗って池袋駅、池袋駅から地下鉄・有楽町線に乗り換えての市ヶ谷駅への毎日の通勤は、
それだけで一日の97.9%を使い果たす、正しく地獄のような日々だったと記憶しています。
凄まじい数の他人がギュウギュウ詰めの状態は、とても嫌でしたが、
フと、そんなに周りの他人が嫌だとしたら、じゃあ、これが全部自分だったら・・・・・・・、
恐ろしく嫌だな、と思いました(笑)。
そうか、一番の地獄は、自分の周りが全部自分と同じでいることなのか、と、その時に気づくのでした(笑)。
世の中が、全部自分だったら、スゲェ嫌だ(笑)。
それ以来、対人で嫌なことがあるにつけ、この人のことはとても嫌だけど、もし、この人が自分と全く同じ自分だったら、もっと嫌だから、
この人がこの人でいることの方が、まだマシなんだろうな、と思うようになりました(笑)。
私は、自分のことが一番好きで、一番大事ですが、
世界中の他人が、自分と全く同じでいればいいというほどは好きではありません(笑)。
私にも、関わりたくないと思う人、付き合いたくない人はいますが、
でも、その人が自分と全く同じ人間でいて欲しいとまでは思っていないので(笑)、
どうぞ、好きに勝手に生きてていいけど、少なくとも私には関わらないでくださいね、いということでしょう(笑)。
私もそうするので、だから、どうか、私が、自分とちょっとくらい違っていたり、それは一緒になんてやりたくないと言ったり、頼んでもないのにうるせぇな、と言ったとしても、
それに対して、つべこべ言ったり、正そうとしたり、虐めないで、そっとしておいて下さいね(苦笑)。
何でもできるAI時代に、何も使えない自分の本質(苦笑)
AIがどんどん発展して、
地下鉄移動でも、まだ行ったこともない場所の立体地図がホログラムで出て、
降りた後の行動予定を立ててる感じがカッコよくできて、スゲェぞ(笑)、とか思ったけど、
そもそも、地下鉄とかそんなに乗らなねぇし(笑)、
乗ったところで、知ったとこくらいしか行かねぇし(笑)、
どうせ使わないようなことを、これがあれば、あれができる、こんなこともできると思いながら、
手に入れてみては、何の役にも立っていないというのは、
経営者勉強会や、ビジネスセミナーや、自己啓発セミナーに行っては、
実際の人生やビジネスに何一つ使うことなく、
そこに行ってる自分という価値で終わらせている本質そのものだな(苦笑)。