自分の「真っすぐ」は、他人の「斜め」(笑)

自分では地面に対して垂直に真っ直ぐ立っているつもりだけど、

他人からは、斜めに立っている、ということは結構あったりします。

 

他人に対してそう思う時もあれば、自分が他人に指摘される時もあって、

ちなみに、私は、若い頃にそういう指摘を受けることがよくありましたが(笑)、

自分では真っ直ぐ立っているつもりなので、

単に「斜めっている」と言われても、

何をどうすれば真っ直ぐに立っていると認識されるのか、全く分かりませんでした(笑)。

 

時に、こういう時はこうすべきだ、とパーツだけ言われても、せいぜいそのパーツのみを修正したふりに至るだけで、

恐らく相手の標榜する真っ直ぐにはなっていないのだから、

直したところで、相手から見たら、恐らくこの程度でしかなく、

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舐めとんのか?と思われていた可能性は高かったのだろう、と思います(苦笑)。

私から言わせれば、もしかしたら、相手が斜めになっていていて、

私が真っ直ぐであるかも知れんだろ、などと不遜にも思ってたりすわけで(苦笑)、

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実際のところ、そもそも、何が真っすぐで、誰が真っすぐなのかなど、いまだに私は分かりません。

思うに、本当に斜めっていれば、いつかはパタンと倒れてイタタと自分で気づくわけだし、

斜めっていても、自分の進む一本の道の両壁があれば、少々バランスを崩したとて、

大きくは倒れずに進んでいくわけで、

問題は、

「どの道の、どれくらいの幅の両壁に対して、真っ直ぐ立っているか」

になるわけだから、前提として見るべきは、

①その人がどの直線の道を進もうとしているのか、

②どれくらいの幅の両壁まで絞り込んでいるのか

なのだろうと思います。

 

ということは、私は、いちいち言ってくる人に、

「そもそも、あんたの道と幅に対して共感していなのだから、あんたの基準の『真っ直ぐ』なんて、私にとってはどうでもいいことなんだよ。」

と思っていたとも言えるわけで(苦笑)、

きっと、その人達は、自分の人生の道を肯定して欲しかったり、認めて欲しかったりしたかったのかも知れないと思うと、

人がどの道を進むのかは認められても、

同じ道を行くことはできないとなった場合、

それが「真っ直ぐではない」、となるのであれば、私はその人にとって「真っ直ぐ」でなくていいや、となるわけで(笑)、

ただ、そういうひねくれた考え方が「真っ直ぐでない」というのであれば、

私は「真っ直ぐではない」とやっと自覚できるな、と、

アホ画像を見ながら思うのでした(苦笑)。

 

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美しく年を重ねるには遅過ぎるかもしれない現実(苦笑)

一人寂しく、下うつむいて、しょぼくれて、

トボトボと歩くのが異常に絵になる人生の先輩は稀にいて、

でも、何故だか、その人の人生の深みが醸し出てていて、美しいとすら思えてしまい、

どんな生き方をしてきたのか思わず聴きたくなるような、

無口で粋でカッコ良い、物静かな、そんな年寄りの男性になりたい、と思うのです。

 

いつまでも若々しくとか、元気とか、アンチエイジングがどうとか、

それは、今からの努力や、付け焼き刃でも何とかなりそうなんだけど、

外的な圧力でなく、内的な魅力が溢れるというのは、重ねた人生の幅や深さ故に、

どうにもこうにも追いつけない圧倒的な存在の美しさがあると思うのです。

 

写真を撮る瞬間のみ意識した笑顔や、

いかにも楽しそうに意図した姿や、

面白おかしそうなアホ面といった、

一瞬だけ切り取ればいいようなものは、いくらでも作れるのだろうけど、

何月を重ねた醸し出される存在感と美しさは、

何をどう取り繕っても透けてしまって、後からでは誤魔化しが効かないのだろうな、と、

そういう先輩を見ると追いつけない圧倒差を実感します。

 

そんな人に見えるように写真を撮ろうと目論んで、

何度も何度も同じ場所を往復して、道行く人に嘲笑されながらも、頑張ったとて、

何ともならない経験をしている私だからこそ、

その圧倒差はよく分かるつもりです(笑)。

既に手遅れは重々承知ながら(笑)、僅かな可能性を諦めずに、

次の10年経った70歳あたりから、くたびれたレザージャケットや、しおれたコートがリアルに似合う年寄りになれるよう、努力しようと思っているところです(苦笑)。

果たして自分のスカスカの人生を、ここから逆転できるでしょうか?(笑)

 

 

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コミュニケーションにおける知性は感情を超えらるのか?(苦笑)

「人間は、社会活動における他者との関係によってのみ生存していける」

という学説に影響されているので、

他者との関係において、高い知性を発揮する能力を高めていきたいと思ってはいます。

 

思ってはいますが、いかにも知性的でいる自分に見られるように、

知性的に物事を考えているように魅せたいと、

頬杖をついて知性的に物事を考えている自分を表現したいと思いつつ、

指一本を伸ばすだけで、鼻に指突っ込んだら、

アホ丸出しに見えて面白いんじゃないか?

知性とアホは紙一重、

誤差微差というのはこういうことだ、

と訴えたくなる感情を抑えきれずに、我慢できずにその行為をしてしまう時、

私が理想の社会活動を営んでいくのは、茨の道なのだろうと思うのです(苦笑)。

 

「人は感情の生き物である」反面、

「知性のよるコミュニケーションが生きる上で重要」という、

生きることそのものが二律背反と向き合うことなんじゃねーか?と身悶えながら、

今年60歳の誕生日までには、知性と感情のバランスを何とか克服したいと焦っている昨今です(苦笑)。

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