「自分がやりたい」と「自分がやった方がいい」ことは違う

子育てや、子供の教育は、

自分がやりたいという自我や、充足感が欲しいだけの、無責任で頭の悪い大人より、

AIロボットの方が、不安定な感情や機嫌や、

何より気が知れない性癖もなく、表に出さない変態趣味もなく、

適正で安定的な判断に基づいて、まともにやってくれるのではないか?

と思える人は、思ってるより多そうな気がする。

なんでウチの子は、こんなんなんだ?って、

それはあんたが生んで、あんたが育てたから以外に理由はないだろうよ(苦笑)。

「自分がやりたい」という欲求と、

「自分がやった方がいい」という能力は、全く違う。

教育における「意欲だけ高い無能」ほど手に負えないものはない。

 

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希望の言葉は残酷な現実に向き合うとも言える(苦笑)


どんなに面倒くさくて、やりたくないような作業でも、

一緒にやる相手が誰かによって、やりたくて、楽しくて仕方ない時間に変わるわけだから、

そりゃ、「何を言うか」ではなく「誰が言うか」だ、と言いたくなるけど、

その、選ばれるだけの「誰」になれるかどうかという点において、

そっちの方が、既に何ともならない、より残酷な現実が待ち受けている予感がして、不安に包まれているのは、私だけか?(苦笑)

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人の言うことは聞いたフリしとく程度で丁度いい(苦笑)


「やるなら、徹底的にやれ。」

と言うので、一つの事を徹底的にやってると、

どうして、

「お前は好きなことしかやらないからダメだ。」

と言われるんだろう?(苦笑)

「一つの事を徹底的にやって欲しいのか、あれこれバランス良くやって欲しいのか、どっちなんですか?」

と聞いたりすると、

「お前は極端だ!」

と、言うので、

「えぇ、徹底的って、はたから見たら極端なことだと思うんだけど、じゃあ、徹底的なんて言わなくていいじゃないですかぁ?」

とか聞いたりすると、

「面倒くさい!」

と、怒り出すので、

「だからあなたは、うだつが上がらないんですよ。」

と言うと、もっと怒り出すことは予測できるので、それは言ったことはない(苦笑)。

私は、ただ生きてるだけなのに、何でそんなに、叱りたくなったり、怒りたくなったり、何かつべこべ言いたくなるんだろう?

と思うことが時々ある(苦笑)。

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