圧倒的に華やかで古典的でアメリカンな方でした
私の中での昭和プロレスの灯が消えかけていた1980年にやって来て、
黄色いタイツに七色のマントを羽織って登場し、いかにも大きくて、華やかで、アメリカンな匂いをプンプンさせるプロレスラーでした。
初来日のTV初登場のストロング小林戦、
第一回MSGタッグリーグ決勝戦の、スタン・ハンセンとのコンビでの、猪木・バックランド戦、
2000年代に入ってスーパースターになってからの、福岡でのグレート・ムタ戦と、
強烈に記憶に残っている試合や、
1984年の「第二回IWGP」の猪木との決勝戦、伝説の蔵前国技館の暴動寸前事件の時は、
私は会場で生観戦していたのも思い出されます。
そのどれもが、圧倒的で華やかでアメリカンで古典的でした。
私の事務所のディスプレイで、なかなか納得いくものがないプロレス・フィギュアの中で、
唯一、長年鎮座してくれているプロレスラーが「ハルク・ホーガン」。
別格の思い入れがあるプロレスラーでした。
ご冥福をお祈りします。
「汚い見た目の自分」から気づくアウトプットの本質と、これからのビジネス構想
頭の中で考えていることを、
言語で「過不足なく」「分かりやすく」「魅力的に」「価値高く」伝えられるかどうは、
ビジネス市場における「伝える力」「プレゼン能力」として、とても重要なスキルだと私は思っています。
しかしながら、例えば、私が20年以上に渡り研究してきた大切ななことがあったとして、
頭の中は当時の若い頃のままで、伝えるときは今だったりすると、
頭の中は若いままで、伝える時は汚いジジイという状況になります。
20年という期間は、長いとも取れますが、本人にとってはあっという間だったりするので自覚ができません。
それは、「まだ自分は若いと思っている痛いジジイ」とか、「老害」とされる人になるということであり、
そうなると、結局のところ、どこが重要かになると、
何か伝えたい、あるいは伝える側の立場なのであれば、
スタート時点として、何より大事なのは「見た目一択」ということになります。
「『見た目』なんて関係ない、大事なのは『中身』だ。」
と言いたくなる時や、それが正しい時もあるでしょうが、
そう言う人で、成果を上げている人は、私は見たことがなく、
逆に、成果を上げている人は、何も言わずに、人知れず、側を意識したり、意図していたりします。
考えてみれば、人は本能として、綺麗なものを好み近づき、
汚いもの・臭いものを避け、時に排除するもので、
「見た目なんて関係ない」
と言っている人も、異性への興味や行動は、その通りにしているのです。
私なんて、スタートの本音は、それしかありません(苦笑)。
私がSNSを知り始めたのは、今からもう20年以上前であり、
その時は、個性を出す上で、「顔を出す」というのは、とても重要な手法の一つであることは分かり、継続してきましたが、
20年の月日が経てば、何の努力もせず、何も手を加えていなければ、経年変化として汚くなっているのが普通で、
当時のまま、何もせずに、ただ「顔を出している人」も知っていますが、やはり、皆、いつの間にか、ただれて汚くなっています(苦笑)。
互いに知っているからいいようなものの、
今日知り合った人から見たら、それは単なる汚いジジイとババアという現実に他なりません。
もちろん、年齢と共に、その生き様が顔に出て、益々素敵になる人もいるでしょうし、それは理想ですが、
そう見える人に話を聞いたり、よく見ていると、
やはり、そう見えるような努力や、手入れをしっかりしているというのが実際だったりします。
というわけで、
①顔は汚くなるは、
②手入れをいるのは面倒くさいわ、
③でもこれから10年は何かを伝えてビジネスしていこうとするわ、
という不遜なことを考えている中で、自分の代わりのキャラクターに動いてもらったらいいんじゃないか?と思って、
こうして動画にしたら、どうなるんだろう?という実験をしているのを、
「遊んでるだけでしょ。」
と聞かれた時に、あたかも考えていたかのような言い分にしています(笑)。
AIとAIの間に入る無価値な自分といかに向き合うか
AIに使われないように、AIを使いこなす側になろうとして、
どうしたらAIが使いこなせるようになるのか?、を誰に聞いて分からなくて、
そうだ、こういう時にこそAIに聞いてみればいいんだ、と思って、
使い方をAIに教えてもらって、あるいはプロンプトまで出してもらって、使えるようになって、
これはいいぞ、と思って、それを人に吹聴しようと、
「AI使いこなしセミナー」
を開催した場合、それは、AIに使われているのか?、AIを使いこなしているのか?(笑)
自分という存在を通過した時に、誰かにとっての何らかの価値が上がることを、価値といい、
それが売れた時の粗利率となる。
この構造からいけば、「AIが使えるように、AIに聞いただけ」なら、
昔の問屋不要論のように、不必要なコストになるだけとなり、むしろいない方が良い存在である。
「利益というのは」→「自分を通した時に」→「価値が上がった分」
というビジネスの基本構造が変わらないとしたら、
その基本構造に立ち戻ることで、「AI時代に自分が何ができるのか?」の選択肢やヒントが生まれるわけで、
その一点においてよく考えるのは、とても重要だと思っています。
よく、
「AIに乗せて、自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性が必要だ。」
みたいな聞いた風なことはよく聞くし、なるほどなぁ、とは思うけど、
では、その
「自分の感情や価値観、思想や理念や想いや哲学の人間性」
とやらで、過去、そこだけをアウトプットして有料化されたことがありますか?
と自らに問うと、口で言うのは簡単だけど、私は自信はないです(苦笑)。
私の説法など、お金払って聞きたいですか?(笑)
私なら、私の説法はいらない(笑)。むしろ、ない方がいい(笑)。いや、あったら聞くだけ時間の無駄なので迷惑(苦笑)。聞きたくない(苦笑)。
昔、自分の読んだ本を、社内セミナーで、やたら自分が教えたがる人がいたけど、
いや、お前のフィルターなんてどうでもいいから、その本とっとと読ませろよ、と思っていたことがあります(笑)。
言いませんけどね(笑)。
というか、私も、今の仕事は、そうやってるだけに極めて近いだけなんで(苦笑)。
自分を通す価値だと思っているものがあったとしても、それが他人にとって無価値であれば、ない方が良いわけで、それが市場経済における現実です。
じゃあ、まるでないのか?というと、可能性は十分にあるわけで、
それは、昔、『お茶くみ』を頼まれた社員が、
「私は『お茶くみ』なんてする為に、この会社に入ったわけじゃない。」
と不貞腐れて、不機嫌にお茶を出すウスラバカと、
「同じ出すなら、私を通して少しでも相手にいい気持ちになってもらおう。」
と、自分に何ができるかと工夫して出す人と、どっちが市場価値が上がって、他人から必要とされていくか?という一昔前の例え話と変わらないと思うわけです。
人のビジネスモデルに深く深く入り込んで関わっていくと、もはや、中小・零細・個人にとっては、それくらいしか残っていないのだろうな、とつくづく思うわけです。
そう考えると、ブログで「ウスラバカ」などという言葉を発しているだけで、もうダメなんだろうな、と反省して(苦笑)、
反省するなら消せよ、となるのですが、ちょっと言いたくなる自分に負けるというジレンマ(苦笑)と、
どう向き合い、いかに自分を処理していくかが重要課題なんだろうなと、個人的には思っているところです(苦笑)。