「徹底的」に価値は宿る

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時々、「『徹底的にやる』ってどうしたらできるんですか?」と質問頂くことがあります。

私は自分では自分が「徹底的」に何かをするという自覚がなくて、むしろ、自分で決めたことかなかなか続かないグダグダでどうしようもない自分という自覚しかありません。

なのに、聞いてきた相手に よくよく聞いてみると、私は「徹底的に何かをする人」という印象があるそうです。

「う〜ん・・・」となって、私の何を見て「徹底的」と思ったのかの事例を聞いてみます。そうすると、人によって事例の違いはあれど、共通するものが見えてくることがあります。

それは、私が意図したかしていないかに関わらず、はたから見ると、私が一定期間において「それ」しかしていないと見えている時のようです。

例えば、日常の中で言えば、毎日毎日いつもどこかで店頭ポップを描き続けている様とか、方向性が明確になるまでエンドレスでミーティングし続ける様とか、勉強会の懇親会が終わってグダグダになった後にもう一度仕事に向かう様とか、上場に向かっている期間中に家庭やプライベートや冠婚葬祭に関わることに不義理をしてまで優先してしまう様とか、あるいは、しつこいまでに口から何かを出す画像をアップし続けたりとか(笑)、ディテールやパーツに至るまで拘っている様とか・・・、効率とか合理性を無視して何かをやっている時のようです。

時に、無駄極まりないと思えることを夢中でやっている時とも言えますね(笑)。

聞いてみて分かるのですが、そう見える時は、実は私は「徹底的にやろう」としている時ではありません。

じゃあ、何を意図していたかというと、「それをやっている時は楽しくて嬉しくて、それ以外は何もしない」と決めていた時か、

あるいは、「それしかやらざるを得ない環境・状況」にいた時、その二つです。

 

そうなると「徹底的」の定義は、他人から見たら、不効率・不合理極まりない程の異常な量や時間をかけて何かをやっている様となります。

その為には

①本人が好きで好きで大好きで、時間も何もかも忘れてやり続けられる程のことがある。

 ②本人の気持ちに関わらず、強制的にやらざるを得ない状況・環境に身を投じていまう。

③それを「徹底的」と認識するのは自分ではなく他人。

④リスクは、周りの人との関係が悪くなったり不義理が生じる。

 

ということになりますね。

要するに、一般的・相対的に見て、バランスの悪い奴になるということなのでしょう(笑)。

ただ一定の成果を出した時のことを振り返ってみると、そういう時は確かに「徹底的」に何かに打ち込んでいた時だったと言えるかもしれません。

さらに、だから私には友達がいなかったり(苦笑)、時に「冷たい人だ。」と言われるのだろうな、と思うのでした(苦笑)。

 

そう考えると、「徹底的」というのは、何かを取りに行くために、それ以外の全てを反故にする選択をするということですから、他人からとやかく言われてやるもんじゃなく、やっぱり自分でしか決められないんでしょうね。

こう書くと、「そんなことできない!」となるかも知れませんが、「徹底的」の期間中も、飯は食うし、寝ているし、家族とも会っているし、お葬式には出ている訳で、まぁ、本人の日常生活は何とかなっている訳ですから、好きでやっているのなら、先に「それ以外は何もしない!」と決め切ってしまうのは、成果を出すにあたり有効な気持ちの持ち方とも言えるでしょう。

そうなると、問題はそこまでしてまで実現したい何かがあるかないかになってくるのでしょうね。

私はそう思っています。

 

とは言いつつも、私の場合は、どうしても実現したい対象というのは、今のところ、口からいかに光線をちゃんと出せるかどうか・・・程度なんですけどね(苦笑)。

 

口から出せるかどうかは重要(笑)。
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