問題は意図していないことにある

問題は意図していないことです。

 

店舗であれば、

「いらっしゃいませ。」なのか、「こんにちは。」なのか。

笑顔なのか、無表情なのか、

一人言えばいいのか、一人言ったら全員が連呼するのか、

揃えるのか、個別対応なのか、

目を合わせるのか、合わせないのか、

レジで終わるのか、外まで見送るのか、

常連客と、一般客と、対応を変えるのか、

・・・・・・・。

 

 

会社であれば、お客が来たら、

ウェルカムの雰囲気を出すのか、あえて知らん顔するのか、

挨拶は受付だけなのか、全員でするのか、

見送りは、受付までなのか、会社の入り口までなのか、駐車場までなのか、

頭を下げるのか、見えなくなるまで手を振るのか、

意味を理解させるのか、礼やマナーの躾で強制するのか、

社員同士なら、キチンとするのか、「チーッス」でいいのか、

・・・・・・・。

 

 

ブログやSNSの「個」の情報発信は、

どこまで出して、どこから出さないのか、

管理するのか、しないのか、

ルールを決めて問題が起きたら対処するのか、最初から個別指導するのか、

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・。

 

 

「最初と最後」をどうするのか?

それは何故そうなのか?

 

問題は、やっていることではなく、何も考えていないことです。

何を意図して、だからどうすると決めていないことです。

 

やっていることは、それを好むかどうかは相手が決めることで、それは、来て欲しい人が好むかどうかが答えとなります。

問題は、意図せず、何も考えていないことです。

 

何も考えていないから、「躾」という教育ができません。

「躾」は、理屈ではありません。頭ごなしの強制です。

 

その国々によって、靴を脱ぐ、頭を下げる、下げる角度、正座をする、といったような作法というのは、

ある国もあれば、ない国もあります。

土足の文化もあれば、5時になればお参りする国もあれば、国家を歌う場面もその国様々にあります。

靴を揃えるのか、揃えないのかになると、その家々の決まりごとであり、風習や文化です。

それは、論理ではありません。

「何故?」もへったくれもなく、やれと言ったらやれの世界です。

その国や地域で、そうした方が良い、とされてきた形であり型です。

 

それを、身体で覚えこませて、意識しなくてもできるようにまで強制したり、真似させたりするのが「躾」です。

 

「躾」には論理がありません。

ありませんが、不思議と、その所作によって、人は自分がどう対応されているかどうかを認識します。

その時や、その場によって、受け取り方は変わるでしょうが、

相手の所作や行動行為によって、

自分がウェルカムで迎え入れられているのか、

歓迎されているのか、

会えて嬉しいと思われているのか、

大切にされているのか、

ぞんざいに扱われているのか、

嫌われているのか、

歓迎されていないのか、

無視されていると感じるのか、

安心するのか、

不安になるのか、

・・・・・・・・・。

 

それらは、心の中でもなく、言葉でもなく、「見た目」であり、行動行為であり、所作で認識します。

そういうものだと思います。

 

だから「躾」は必要ですが、

肝心なのは「躾」の前提となる意図でしょう。

何をどう伝えたいから、その所作や行動行為をする、という意図です。

だから、問題は意図していないこと。

何も考えていないことなのです。

 

日常生活や、ビジネスの場面というのは、

「人との出会いの最初、人との別れの最後」の最小単位と考えるなら、

それをどうしたいか、という意図が、行動行為に現れて、

行動行為から自分がどう思われているのかという意図が見え隠れするので、

人は相手の所作や行動行為から、相手が自分をどう思っているのかを感じるのだと思うのです。

 

 

そして、それは理屈でもなく、論理でもなく、自分が様々な場所や場面で、どう対応されて、どう感じたかに委ねられる、

と私は思うのです。

 

意図して表現したことは、それをどう受け止められたのかは相手に委ねるしかなく、それがダメだ嫌いだと言われたら、

あとは、その相手に合わせるか、その相手を諦めるという選択をすればいい。

 

でも、何も考えていない、意図していないのは、何も始まらなければ、何も分からないのです。

 

一般社会やビジネス世界でいうところの「個性」とは、実は、この「最初と最後」の所作や行動行為の中に成り立っているといか思えません。

 

この手のことは、いい年こいて、もう誰も言われたくないだろうし、誰も言いたくもありません。

それが分かっているから、いい年こいたら、誰も言いません。

せいぜい親か、リスクがある会社の上司やトップ程度ですが、それも意図がなければ言いません。

だから、分からん人は、ずっとずっと知らんままで、それが普通で、どうして他人が自分から離れていくのか分かりません。

 

よって、「最初と最後」を意図するのは、社会生活での最低必要条件であり、

それを、人は「挨拶」と言ったりして、「挨拶」はちゃんとしなさいと躾けられるのでしょう。

 

 

私の経験則では、「最初と最後の挨拶」を意図するだけで、業績は120%までは上がります。

何が正しいといっているのではありません。

意図することが大事だということです。

意図さえすれば、①コストを使わずに、②誰でもできて、③すぐできる、の全てが揃います。

そう考えると、「最初と最後の挨拶」を意図するというのは、どんな「個」よりも優先されることだと、

日本あちこちの様々な集客施設や会社を公私共に伺ったり、

色んな人が来てくれる事務所での、様々な人達との出来事を見るたび、振り返る度見るたび、私は思うのです。

 

店頭の等身大の置物を見つけて、「躾」を表現しようとしているような、デリカシーのない私が言えた義理でもないとも思うのでした(苦笑)。

 

言えた義理じゃねーよ(苦笑)。
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