私の考える「考える」ことの前提条件

「そこは、よく考えた方がいいよ。」とか「もうちょっと考えた方がいいよ。」とか、

よく言われました。

言われたところで、それまで多かれ少なかれ考えて、その場に至っているわけで、何をどう考えていいか分からなくて、

なんだそれ、無責任な終わり方だなぁ、お前が考えてねぇのをうまく誤魔化してるんだけなんじゃねぇのか?

なんてことを、よく思ったりもしました(笑)。

(とはいえ、私も、誰かに対して同じようなことを言ったりするわけで、そういう時は大抵は面倒くさくなった時だったりしますからね(苦笑)。)

 

深く深く考えたのか、ちょっと考えただけなのか、いずれにしても、その人なりに「考えて」、いまの考えに至っているわけですから、

いまの時点ではそれ以上は考えられないから、いまの考えなわけで、

それ以上考えられない人に、考えろというのも、また無理で酷な話だと思うのです(苦笑)。

そもそも「考える」なんてのは、最も面倒なことなわけで(笑)、できるだけしたくないのです(笑)。

 

中には、何か正解や答えがあって、それを探すことを「考える」ことをだと思ってるんじゃないか?と感じる人は案外多かったりします。

まぁ、それも「考える」ことのうちの一つなのかも知れませんが、

同じ人が、「どんな経営の方法が正しいのかなんて、正解があるわけじゃない。」

なんて言ったりもするから不思議です(笑)。

だから、自分で考えなきゃいけないわけで(笑)、正解がないのが分かっているなら、自分で考えて、行動してみるしか、自分なりの正しさを捉えようがありません。

 

じゃあ、そうい相談が来たら、どうしたらいいか?というと、

私は、とりあえず質問していくことにしています。

 

質問をしながら対話していくと、新たに「考える」というということをしだしたり、喋りながら色んなことに気づいたり発見したり、そういうことが起こります。

「受信して、発信する」という脳の作業を繰り返しながら、自らを可視化するというのは、

「考える」という意味において、とても有効なんだろうなと、多くの人を見ていて実感します。

 

だから、相手に「考えろ」というのではなくて、相手が「考えるように質問する」というのが、

相手に考えさせたい側の持つべきスタンスなのだと考えています。

不思議なもので、「考えろ」と言っても考えられない人でも、質問すると、その質問に対しては「考える」ことはしだしたりしますからね(笑)。

人は、喋りながら勝手に考えて、喋りながら勝手に気づいていくんだろうな、と思うのです。

 

私の経験則からの「考える」における条件であり前提は、

① 考える時間

② 考える場所

③ 考える質問

の3つが、いかに有効に揃えられるかどうかですね。

これがないと、いま以上に考えることはしません。

特に③は最重要ですね。

そもそも、一人で考えたり、自問自答を繰り返していることそのもののポイントが違っていたり、方向がずれていたら何ともなりませんから。

そういう意味で、自分にとって良い質問者がいてくれるとしたら、それはもう最高の財産とも言えると思いますし、

考えさせたい側は、この3つをどうするか?を大事にするのが大切でしょう。

「時間」の設定と、「場所」の設定と、そして「質問」できる能力です。

これまでの経験則から、今のところは言い切れる自信ありますね。

今のところは、ですがね(笑)。

 

まぁ、私が「分かりました、よく考えます。」といって話を切り上げようとする時は、

「もうその話について考えたくない。」

「面倒くせぇから、早く終わりたい。」

という感情が働いている時ですから(笑)、

だから他人が「よく考えます。」と言って終わらせようとする時は、こと「考える」もいうことについては、絶対しねぇだろうな、と、まるで信用していませんからね(笑)。

だから、しつこく質問するのだと思います(笑)。

 

なんてことを「考えて」いたら、タバコ吸いながら、ストローを鼻に突っ込んで自撮りしたくなったということは、

やはり、一人で何も考えてねぇんだな、と自覚させられるのでした(苦笑)。

 

「考えろ」って言っても考えないよ(笑)
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