面倒くさいを前にしてどっちを選ぶにせよ必要なのは目標
我ながら、忘れたころに、鼻ストローが出てくるな(笑)。
右と左の手に持っている飲み物を、両方一度に飲もうとしても飲めません。
(そもそも、鼻ストローであることの前提がおかしいわけですが(苦笑)。)
この10年近く、中小・零細・個人企業の多くの経営者の方々とお会いしていて、理解でき始めたことがあります。
ほとんどの経営者は、
業績を上げたいと思っているし、利益を出したいと思っているし、稼ぎたいと思っているし、社員の給与を上げたいと思っています。
同時に、「自分のやりたいように」「自分のやり方で」「自分のできる範囲で」「そこまで面倒なことまではしたくない」「どういう見られ方をして」という、価値基準や感情といった類の何かがあります。
思考にせよ、行動にせよ、最強の敵は「面倒くさい」です。
やったら理想とする目標に近づけることが分かっていたとしても、
それ以上やるのは面倒くさければやりません。
そうなると、すべての「面倒くさい」とか「自分らしさ」とかを一旦は反故にしてでも、
無理をしててでも、業績を上げたいのですか?という根本的な質問になる。
そもそも、「良くしたい」とは言うものの、定量的な数値、例えば、売上金額とか、年収とか、
それすらも明確でない場合の方が圧倒的に多かったりします。
あるんですかね?
そこまでしてでも「稼ぎたい」という純朴な欲求や理由が。
まずは前提として、そこからのような気がします。
(ちなみに、私が株式上場に向かえたのは、親に褒められたいとか安心させたい、とか、家業廃業した時に無視したり去っていった奴らを見返してやりたい、という類のドロドロした感情が基盤にあった。)
中には、理由がどうあれ、「儲ける・稼ぐ」ことそのものに本気になってストイックに突き進む人もいます。
そういう人は、方法論を知ったら一直線に行動して、やって良かったか悪かったかの事例を勝手に創り上げていきます。
でも、失うものもあったりします。
例えば、「あいつは金になることしか興味がない」とか「あいつはケチだ」だの、そういう類の他者からの評価や声を受け止めねばならなかったりすることです。
これは、気にしないことはできても、決して気持ちいいものではない。
そういうことです。
あるいは、例えば
「人間関係壊してまで(そこまでしてまで)、業績を上げたいとは思わない」
という人もいます。
それなら、人間関係を維持しながら、業績が上がる方法を必死で探して行動するしか手がありません。
人間関係を維持する方が優先ですから、よって、今以上に稼げなくても、それならそれでいい、そういう生活スタイルでいい、稼げたらラッキー程度と、その後の人生まで含めて、先に割り切る前提を持っておけばいいのです。
もちろん、両方叶えばいいでしょう。
いいのですが、今の段階・状況で、先に出したい足は、右足か左足かは自分で決めておくべきでしょう。
A・自分のやりたいようにやって(面倒くさいことはやらずに)、稼ぎたい
のか、
B・今、稼ぐ為なら、目標額に行くまでは(面倒くさいことをやってでも)、全部やる
のか、
まずは、そこは自分で決めておいた方がいい。
どっちにしても、最低限必要なものはあります。
少なくとも、私が今言えるのは、
①明確な目標(期間と金額)
②目標を叶えるための効率的な方法の知識
③具体的な行動
の三つです。
これはAであれ、Bであれ、必須です。
これだけは決めておかないと、ただ刹那的な感情で生きているだけで、何も進みません。
とりあえずでもいいから、エイヤーで、一旦決めてしまうことです。
整合性は後からでもいくらでも修正すれば良いでしょう。
私の経験上、エイヤーで決めても、長い時間かけて論理性に基づいても、
結果、たいして変わらない数値に落ちつきます。
私の経験上、面倒くさいことをやる時は、
①やらざるを得ない時(最低限のライフスタイルの維持)
②どうしても叶えたいことがある時(ビジョン)
に2つです。
ちなみに、私はほぼ100%、ほとんどが①の人生を歩んでいます。
こういう画像を日頃から出しまくっているので、
さぞ私は、
「やりたいようにやって、稼いでいる人」
に見えるかもしれません。
だから傾向として、やりたいようにやる前提で稼ぎたいタイプの人が集まってくる傾向があります。
でも私のアプローチは、「できるだけ効率的にやらねばならないこと」にしか向かいません。
極めて真面目で面白くもなんてもない正攻法の連続です。
でも、もうお分かりだとは思いますが、
鼻にストローを二本刺してた画像をアップすれば、
売上ができるかというと、絶対にできません。
こういう小難しい、面倒くさいことを読んでもらうための導線として、いかにも関連しそうな、こういうアホ画像を出しているだけです。
それで引っ張ろうと意図しているだけです。
あざといと言えばあざといです。
あるいは、実際にやっているので、日常の自分と言えば自分とも言えます。
意図しているからこそ無理してやっていると見れば、そう見える。
やりたいからやっていると見れば、そう見える。
大事なのは、やっている本人が、AなのかBなのか、どちらなのかを自覚しているかどうかです。
これは本人にしか分かりません。
一つだけ言えるのは、無理してやったり、面倒くさいけどやったり、そういう経験を積むと、
いつしか慣れて、無理でなくなって無意識になったり、
面倒くさかったことが自然とできていたりする、
というようなことが起きるということです。
「本人にしか分からない」とは書いたものの、
実は本当のところ、当の本人も、この画像は、無理なのか自然なのか、もはや、何が何だか分からなくなっている(苦笑)。
単なる、そういう人(苦笑)。
さういう積み重ねというのは、もう後からでは追いつけないから、だから経験というのは恐いと思います。
どう見えるか、自分はどうありたいのか、という難問は、実は結局のところ、自分も含めて分からないというのが私の結論です。
だとしたら、双方で明確に共有できるのは、せめて、目標数値くらいしかないでしょう。
その目標に、無理してでも挑むのか、面倒くさいからやめるのかは、自分の人生なのだから、自分で勝手に選べばいいと思うのです。