ファッションは死ぬのか?

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今や芸能人と化し、全国に花粉症以上の拡散力で、そのウィルスと影響力を飛び散らかしている(笑)「短パン社長」と、伊豆長岡で合流。

今朝の短パン社長は、私のイエローのレザージャケットを見るなり興味を持ったようで、

「ツヴォイさん、それ、どこの---------!!!!?」

「そういうのって、いくらくらいすんの---------!!!!?」

「たっっっっけー---------!!!!!」

「俺、そんなん絶対に買わないし------------!!!」

「でも、考えてみたら俺のテーラードジャケットもそれくらいするし---------!!!!!」

価値観の違いだよなぁ。

「俺、そういうの絶対着ね------し-----------------------------------!!!!!!!」

とか何とかメキシコまで聞こえそうな大声で言ってたので(笑)、

「いや、短パンは、着たら着たで何でも絶対に似合うよ。」

とか何とか喋りながら、久しぶりに互いのジャケットを交換して着てみたわけです(笑)。

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交換して着用する度、いつも思うんだけど、短パン社長は何着ても似合うし、自分のものにしてキッカリ着こなしてしまいます。

短パン社長は短パン社長で、

「いや、それはツヴォイさんも一緒だし----------------------------------------------------!!!!!!!」

と嬉しいことを言ってくれるわけです(笑)。

まぁ、私もこれでも80年代DCブランド真っ只中でパリコレブランドのお仕事してたアパレル業界の端くれなわけで、着たら着たで何でも似合ってしまうわけですね(笑)。

ということは、こと他人から見られる分には、別にこだわる必要なんてなくて、何を着ててもそれなりには見えるということです。

しかし、にも関わらず、二人とも、それぞれに身に着けるものは徹底的にこだわっていて、互いの相対して選択するモノは、絶対に互いに選択しないわけですね。

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流石に裸の時は主張のしようがないか??(笑)

この時、昨日の夜、露天風呂で藤村先生と話していたことが頭の中でリンクしてました・・・・・。

ファッションというのは、それぞれの人がどんなブランドやどんなデザインを着用するかということによって、ある意味、どういうライフスタイルを標榜していて、どういう価値観をもっていて、どういう生き方をしていたいのか?というパーソナルの部分を、最も端的に表現しやすいツールであったと思うのです。

だからこだわる人が多かったと思うし、逆にこだわらない人は「こだわらない」という表現をしていたとします。

だから、私は、レザージャケットやジーンズ・ブーツを好んでそれなりのどう見られたいかにこだわっているし、短パン社長は一言で言うと「オシャレ」を好んでどう見られたいかをこだわっている。

そういう人の数が以前は多かったのだと思います。

ところが昨今において、ファッションでなくても、個人の価値観や主張というものが手軽に簡単に日常的にできるようになった。

例えば、それはスマホやSNSの標準化によるものだったりするわけです。

もし、仮に、「ファッション」というものが、その人の価値観やライフスタイルや主張や思想というものを表現していたツールだとすると、昨今において「ファッション」が売れなくなってきたというのは、その本質は同じでも表現ツールが変わってきたから・・・・・・、という仮説は十分成り立つと思います。

そうなると、件名の「ファッションは死ぬのか?」という問題の答えは、片方で「イエス」であり、片方では「ノー」となります。

片方のイエスとは、これまでのファッションの現象・・・・、例えば、ジャケットの素材がどうだとか、デザインがどだとか、パターンがどうだ、縫製がどこだ、といった、ファッションの目に見えてきた部分。

これまでの既存の優位性や独自性の延長線上としては「イエス」、すなわち「ファッションは死ぬ」と言わざるを得ない、そういう時代背景ということになると思っています。

もう片方で、いままで表層としてのファッションの本質は何だったのか?(ここでは『各人の主張や思想やライフスタイルの表現手法の一つ』と仮定するとして)を捉えることで、売るのは洋服ではない別の何かへと変換し、それが一定数以上の人達から共感を得られた場合、そうなると「ノー」になり、すなわち「ファッションは死なない。」となると思うのです。

そう考えると、私は今まで、本質論や哲学や理念といったものは、ある限られた人や、もしくは変わり者と言われるような人が語っていればいいと思っていたけど、でも今はビジネスに関わる人全てが最低限必修だと思えて仕方ないのです。

いま扱っている自社の商品というのは、本来、どんな思想や哲学や主張というものを表現しているのか?・・・・、それが明確に言えないと、もう何を扱おうとうまくはいかない。

クラゲのように、根無し草のように、表層をあっちにフラフラこっちにフラフラ、やっとたどり着いたと思ったら、すぐにあちこちから似たようなのが追いついてきて、結局、資本の大きさに淘汰される・・・・・、という繰り返しになるように思えるのです。

そう考えると、全ての業種業態は、自社や自社の扱い商材は単なるメディアであると強引に置き換えてみて、今やっているビジネスが何であれ、そのビジネスとは、本来、経営者や働く人達の、どんな思想や哲学といった、目には見えない想いを表現しているのか?・・・・・そう考えてみること極めて有効な方法と言えます。

さらに、それが言えるようになるには、最も学ぶべきは、「人」とは何者なのかということであり、それには、歴史上の人物や、小説や映画、あるいは周りに現存している「人」からである・・・・・・・、という考えは正しいと思えてしかたない時間となるのでした。

というようなことを、考えていたら、隣で腰痛がまだひどくて、短パン社長が座薬を入れる準備をしていて(笑)、一気に集中力を切らすのでした(笑)。

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でかーーーーーーー!座薬もでかーーーーーーー!(笑)

てなことを考えたり喋ったりしていたら、すっかり一日が終わってしまい、こんな時間になってしまったので、そんなことを考えながら、寝るとします。

また明日・・・・・、どんな発見があるのかを楽しみにしながら、おやすみなさい・・・・・・・。

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