ケツを出していても考えることはちゃんと考えるんだよ(笑)
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今日からの合宿の打ち合わせを終え、藤村先生はじめ講師陣の皆さんと、案の定、深夜貸切の露天風呂に入ったわけですが、毎度のごとく、この時間というものがいかに勉強になるかというのは毎度のごとくであります。
すぐ忘れるといけないので、自分用にメモしておかねばならぬと書いておこうと思うのですが、今回はいささか文字にするのが難しくて(苦笑)、
①ボランティア・福祉という活動の現象から見る、共感の本質とは何か?
②「恥部」と「人の弱さ」というのコトバの違いからくる、自分の全てを露呈することという意味では同じ本質でも、コトバ一つで受け手の捉える印象が随分と変わってしまうであろう現象論
③共感が発生し、影響し合うことへの本質論
④アパレル業界の歴史的変遷に見る、全ての業種業態を無理やりメディアとして置き換えてみることで見えてビジネスの本質論
⑤影響力とは煎じ詰めれば「人柄」に集約されてしまうのか?だとするならば、それぞれのステージで果たして再現性たる本質はどこにあるのか?
⑦コミュニティーの発生は、ターゲティングによるものか、意図せず自然にできるものなのか?
⑧純粋に生きるということは、果たして資本主義社会の中で可能なのか?
あぁ、もう、うまく書けないけど、自分のメモだから自分だけが分かってりゃいいや(苦笑)。
等々、深く考えさせられることが多く、それぞれの見解と意思決定が問われる中、そんな重要なことをケツ丸出しであることは露天風呂であるというのは、そこが露天風呂であるが故いたしかたありませんでした(苦笑)。
一日の討議を通して改めて思うのは、
個人の思想や独自性というものは、まるで答えのない禅問答のような繰り返しの中から、
「私はこうである。なぜならば、こうだからである。」という
①個人的な明確な主張・見解を持っているか
②それは、どの根拠に基づいていると言い切れるかどうか
②それを継続・一貫させられているかどうか
ということからしか、他人には認識できないのだろうということです。
ケツ丸出しでも、ここはちゃんと考えとこ(笑)。
特に②の根拠は大事だな。
自分の体験・経験に宿る価値基準でもいいだろうし、宗教の教えに委ねるでもいいだろうし、本に書いてあったんだからにそうなんだもんでも、セミナーを受けてそうだと思ったんだもんでも、何だっていい。
問題は、「なんでかっていうとね。」という自分の主張に対する根拠が「あるか・ないか」である。
あれば、共感ができたり、できなかったり、その考えが好きか嫌いかが言えるものね。
ないものはないから、「好き・嫌い」「賛成・反対」すら言えやしない。
また、現実的な自分の根拠となるものが、自分の思ってるものと違っていることを自覚させられめのが嫌な人もいるだろうしね(苦笑)。