変える意図と変えない意図
髪の毛を切って、結構切ったなぁ、とか、カッコ良くなったじゃん、とか、
そう思っているのは自分だけで、周りの人は別に気づいてもいないし、そもそも気にもしていない、というのは、
当たり前のように分かってるつもりだけど、
自分でも、切る前と切った後とで、大して変わってねぇよな、と思って、切ったことを忘れる程度ってのは、どないやねん(笑)。
そういえば、以前、高倉健さんの日常というかドキュメント番組みたいなのを偶然見てたことがあって、
2週間毎に、行きつけの理容室で、高倉健さん用の部屋で、ほんの数ミリ単位で散髪している場面があった。
(記憶は曖昧だけど(苦笑))
こちらから見れば、画面で見ている高倉健さんというのは、いつも同じイメージの変わらぬ高倉健さんの映像なわけで、
考えてみれば、高倉健さんだって、髪の毛は普通に伸び続けるわけで、
いつも変わらないあの精悍なイメージは、トレードマークでもあるあの髪型の細部へのこだわりを維持し続ける為には、そうか、散髪し続けないとできないんだよな、と勝手に改めて納得させられたものでした。
役者という自分以外の人格に変化することが日常の部分と、統一された変わらないイメージにこだわり続けるという日常という二つの局面に、
なるほど、第一級のプロというのはそういうもんなのか、と。
髪の毛を切ったとか切らないとかに、誰が気づいた気づかないとか、ギャアギャア言う、日常もを変える為の散髪をする日常もあるなら、
誰もそんなこと気づきもしない日常をキープする為に徹底的に意図する日常もあるわけで、
どっちがどうというよりも、同じ日常をどうありたいか、というのは、本人の生き様に直結するわけで、
それは、そもそもどうありたいのかの前提からの自然な行動行為の違いなのだな、と思うのです。
そもそも、見た目の格好だけ気にするような程度の薄っぺらな私(苦笑)なんぞには、そういうことは到底語れぬ領域なれど、
後年に、そうかツヴォイにはそういう意図があったのか、と周りに勝手に評価されるような、
そういう実績と人格を目指して、そんで身につけてから、とやかく言うことにしようと、
こうしてとやかく言っていることを反省するのでした(苦笑)。
まぁ、いいや、今んとこは、自分で自分はカッコいいと思ってりゃな(笑)。