見られても見られてなくてもアホに変わりはない(苦笑)

研修の一環と称して、同じ情報を遊びながら共有する名目で(笑)、友人と名古屋駅を散歩していた時。

この時点で研修ではなくなっています(苦笑)。

 

ちょうど名鉄「ナナちゃん人形」の前にさしかかった時に、お掃除かお色直しかの作業の為に、係のオバちゃん達が三角コーンを並べ始めてました。

 

「こんなチャンスは今しかない」と思い、速攻でアホ丸出し画像撮ってました(苦笑)。

 

こんなことよくやるよなぁ、と我ながら思いつつも(苦笑)、まぁいいや、俺のことなんてどーせ誰も見てないから、と開き直っていたら、

ご一緒してた方が、「ツヴォイさん、思いっきり笑われてますよ。」と笑いながら言うので、

目線の方を見てみたら、隣のバルみたいなとこで飲んでたサラリーマン風のお兄さん達が、店の中で思いっきり笑ってました(苦笑)。

 

自分のことなんて誰も見てないと思うと、それはそれで寂しいと感じる時もあれば、

自分のことを見てばかりいられると面倒だと思うこともあります。

見て見てもっと見て欲しいとどんなに思っても、誰もあんたのことなんて大して見てないよ、という時もあるし、

誰も自分のことなんて見てないよ、と思っていたら、人知れず見てくれている人もいることに気づく時もあります。

 

まぁ、要するに、見て欲しい時は見ていて欲しいし、見られたくない時は見て欲しくない。

見て欲しいところは、見ていて欲しいし、見られたくない時は見て欲しくない。

見ていて欲しい時は、見ていて欲しいし、放っておいて欲しい時は放っておいて欲しい。

そんなもんだと思うのですね。

 

なんだかんだと言って、都合よく、自分基準で、勝手に、自分の思い通りになるように他人に求めてるんだろうな、と思うわけです。

 

どうせ、見られたら、見られなかったり、他人視点で何かを思われたり、無視されたり、賞賛されたり、承認されたり、常にそうやって、されてるわけで、

どうせそうなら、どう見られても、あるいは見られなくても、喜ばれても、バカにされても、意図せずとも傷つけてしまぅたり、

その一つ一つは、時に嬉しく、時に悲しく辛い時もあるけど、

一つ一つの他人の無責任な感情はあまり気にせず、自分が良かれと思うことや、正しいと信じれることや、その時々に選択している一つ一つに、自信がちゃんと持てたらいいなあ、と思うのですが、

こういうことを書くには、あまりに説得力のない画像であり、自信を失うばかりか、そもそもカケラすら自分には感じ得ないのでした(苦笑)。

 

まぁ、いいや、どーせ、誰も見てねーし、見てたとして、何らかの印象を得たとしてよ、一年も経ってれば忘れてるだろうから(笑)。

 

見られたくても、誰も見てない。
見られてないと思ってると、誰かは見ている。
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