「伝える」ということは「伝わらない」ことが前提である
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コトバは人にとって神が与えたもうた最も重要な伝達機能なれど、コトバほど不便で不完全なものはないと思うのです。
全ての情報は発信側ではなく、受け手側に委ねられる運命にあります。
と、私は定義しています。
コトバは情報の一つですから、受け手側にその意味や意図も委ねられるというのは同様なわけで、例えば、このブログで書いていることも、私の意図と、読んで頂いている方がどう受け取ったかが完全に一致しているかどうか?というのは証明のしようがないわけです。
よって、自分が伝えようとしたことが相手に伝わっていないことを知って、嘆いたり、怒ったり、悲しんだりする場合、それは、自分が伝えたことは自分の思い通りに相手に伝わるということを前提にしているだけに過ぎないということになりますね。
逆に、自分の想いや気持ちが相手に伝わったと実感した時の感動や「快」がある場合、それは、情報というのは自分と相手を一致させることが難しいという前提がある、すなわち、なかなかあり得ないことができた!という気持ちに他ならないからと思うのです。
私は「伝える」ということはとても大事だと思っています。
それは、「伝える」場数を増やすということと同じ意味です。
それは、「伝える」という能力が上がる上がらないということよりも、「伝える」という行為を通して、こういうことを考える、すなわち人間とは何者なのか?をよくよく考えさせられるからで、そこに大きな意味がある思っているからです。
人間を知るといことは、恋愛ざたから始まって、日常生活や人生を豊かにするには、本来、最低限必要だと思うし、ましてビジネスではなおさらです。
自分以外の誰かの役に立たねば売上や利益は成立しないし、また、自分は何が楽しくて嬉しいのかを知らねば継続ができません。
自分の伝えていることは、他人には完全に伝わらないことを前提に、それでも、一致できるように伝えようと努力するというのは、人間を知るということと同義です。
自分の発信した情報が、あぁこんな風に受け取られて、私の意とは違うに関わらず、その人は良かれと思って、行動してしまうんだな、と、実感することがよくあります。
多かれ少なかれ他人様の人生に影響を与えてしまう以上、諦めずに「伝える」ことを探求したい・・・・・、とシャッター街でタバコに火をつける瞬間にフと思うのでした。