アホ犬に教えてもらうほどのアホ人間の自分に気づく(苦笑)
今年のお正月は、久しぶりに愛犬のアホ犬に会えました。
いつの間にか、すっかりお爺ちゃんになっていて、
私が帰ると、あんなにゲージの中で、グルグル回りながら、落ちつきなくワンワン鳴いて、ギャアギャア大騒ぎだったのが、すっかり大人しくなっていて、
黒ポメが、すっかり白髪ポメになってんじゃんと思いながら(笑)、
一緒に写真を撮ったら、向こうから見たら、私もすっかり白髪オジサンになっていることに気づいて(苦笑)、
「おめーも、動きたくなくなってて、白髪ジジイじゃん。」
という顔をしてました(笑)。
私は、いつもアホ犬と紹介していますが、きっと
「おめーもアホ人間じゃん。」
と、同様に思ってるのだろうな、と思いました(笑)。
生きていれば、日々の変わらぬ積み重ねをしながら、いつの間にか歳はとっていくわけで、
生きるということは、すなわち死に近づいていくことと同義です。
この年になって、ガンの経験やら、喉の調子が悪くなった日々の経過や、こうして愛犬が年老いていくのを目の前にしたり、
こういう経験をしながら、やっと、生きているうちに何ができるかなんだろうな、と少しは思うようになりました。
ところが、50・60歳だ、となって、やっと何かに気づいて、やる気になって頑張ろうとしたとして、
そう思うことそのものが、一般市場においては、すでに老害スタートであり、老害の前提であることも分かっていて、
何かに気づいて、前に出ようとすればするほど、邪魔で不必要で、単に足を引っ張ったり、次の世代の重しになる存在になるリスクは、前提としてあるわけで、
とは言え、この年になって、やっと分かってくることがあるのも、この年にならないと分からなかったということもあれば、
最大の問題は、経済活動において何か行動を起こしていかねば、理想の人生を創れないという、要するに「お金」の問題という現実には、
自己責任として向き合っていかないといけないという状況もあるわけで、
どの市場の、どのポジションで、どの価値を創出して役立っていくか?というのは、
一人一人の課題として、本気で向き合っていく時代になっていくのだろうな、と思っています。
自然体でいるだけで、誰かから必要とされ、
無理のあるような要らぬ前に出ることなく、でも依頼されるだけの価値がある側であるのが理想だとしても、
どうすればそれが実現していけるのかに、真正面から向き合っていく時期に来ているのだろうな、と、
苦々しくも考えなきゃいかんのだろうな、というところでしょうか。
片方で、生きているだけで価値がある、という考え方としての側面は正しいと思いながら、
現実は自分の市場価値と向き合い、成長していかねば、自分の人生は創れないという現実の側面もまた絶対に無視はできません。
そんなことを考えながら、お前はそんなこと考えずに生きてんだろ、と犬に思っていたけど、
それでも、私のことは、どんなに離れていても絶対に忘れずに、こうして喜んでくれる犬がいて、
子供達曰く、
誰と会う時よりも嬉しそうで、私と一緒にいる時に最も落ち着いて、私がいなくなると慌てて探し出すのが、この犬らしく(笑)、
どんなアホ犬でも、そう思っていてくれることはとても嬉しいわけで、
ということは、私にとっては、とても大切で必要な存在であることに気づくわけです。
そんなことから、犬からだけではなく、人間からもそう思ってもらえる人間にならなきゃいけないな、とフと思い、
こういうことに次のステージのヒントや、仮説のヒントや、チャレンジの種があって、
アホ犬だと思っていたけど、そのアホ犬に何か大切なことを教えてもらっているような気がして、
アホ犬よりアホなアホ人間である自覚を持った、久しぶりの犬との時間でした(笑)。
今年は、謙虚になって、もうちょっと会ってもらいたいと思います(笑)。