他人と比較して「自分はダメ」だと自覚する重要性
- カテゴリー:
- 坪井の日常
- 坪井式モチベーション
- 坪井式屁理屈
名古屋駅西口地下街の「エスカ」に大谷翔平選手のポップアップショップができて、連日賑わいをみせているようです。
私は野球に関しては大して興味はありませんが、
いくら何でも、大谷翔平選手の名前くらいは知っているし、
その世界的な知名度や偉大さくらいは理解しているつもりです。
「行ってみたい」という方を案内した際に、等身大パネルがあったので、一緒に撮ってみて、
こうしてみると、何もかも違っている現実に晒されて、大いに凹みます(笑)。
霊長類ヒト科としての一つ一つの細胞の個体差も、持って生まれた才能も、人生の努力量における能力差も、心の在り方も精神力も、人と関わる際の人間性からくる人気や信頼性も、
もう何もかも全てにおいて、あまりの違いに凹みます(笑)。
他人と自分を比較すべきではない、という話はよく聞きますし、それは片方では正しい思考かとは思う反面、
私は「ヒト」というのは、動物の中で唯一「比較対象」によって成立する生き物だと思っているので、
「比較対象」するのがまともな人間の在り方であるとも思っています。
大きくは、
①自分と他者の比較対象
②過去の自分と、今の自分と、未来の自分の比較対象
の2つで、
①がないと、他社との違いから認識される自分という存在が認識できないし、
②がないと、自分の人生という認識ができません。
ヒトというのは、良くも悪くも「比較対象」によって生きる生き物です。
家業である「傘メーカー」の業績回復に悶え苦しんで、それでもなかなかうまく行かなかった当時、
経営の師匠Aさんに、見事にV字回復させた後継者Bさんの話になったことがあります。
私は師匠Aさんに聞きました。
「もし、Bさんのような優秀な後継経営者なら、私のような劣悪な状況だったら、それでも上手く行ったのでしょうか?」
Aさんは即座に答えました。
「もしBがツヴォイの立場だったら、ツヴォイのようにウダウダせずに、とっとと新規事業を立ち上げて成功させているよ。
もし、お前が本当に親父さんや社員を助けたいというのなら、
そこまでお前がダメというような事業なんて、とっとと諦めて、
お前が新しい事業をゼロから起こして、成果だして、みんなを食わせてやればいいだけじゃないか。
Bならとっくにやっとるやろ。」
当時の私は、
私のような衰退業界では、誰がやってもうまくは行かない、私ができなくても当然なんだ、
そんな中、それでも祖父母や両親や古株社員が続けてきた想いを何とか助けようとしている自分は、
正しく美しい後継者の姿だと思っていて、その姿を他人から認めてもらえることだけが、唯一せめてもの励みでした。
Bさんは、まだ芽がある業種業態だったし、周りの理解に恵まれていただけだ。
もし私がBの立場と業種業態だったら、私もBさんくらいまではできている。
そう自分に言い聞かせるまでがやっとでした。
愛情を込めて私に関わってくれていたAさんに対し、私が求めていたものは、
「お前は大変な中、それでも良くやっている。これはBでもできないことだと思うよ。」
というような言葉を期待していたのだと思います。
そんな私の現実から逃避する甘えた精神を見透かしたような、見事な「比較対象」の一撃でした。
そうか、周りの人や業種業態がダメなのではなくて、私がダメだからダメなだけなんだ・・・・。
それまで薄々は気づきながらも、向き合わなかった自分との現実に対し、やっと向き合うことになる出来事でした。
当然ながら少し凹んだけど(笑)、やっと目が覚めた瞬間でもありました。
それから、少しづつ少しづつ、遅まきながらも、自分と事業や経営というものに向き合うよになり、
その当時の私の構想は、後にリサイクルショップという形になり、結果として株式上場への道へと繋がります。
たったこれだけの行数ですが、ここまでに私は15年以上の月日を費やすことになりました。
しかし、その後の人生の系譜を考えると、
この時の「比較対象」の瞬間こそが、次のステージを創ってくれたとも確信しています。
あの時のAさんのたった一言がなければ、どうなっていたかは分かりません。
そう思うと、Aさんは、見事な「比較対象」をして私を変えたとも言えるでしょう。
そういう経験則からか、
私は「ダメ」なもんは、やっぱり「ダメ」なんだと思っています。
自分の「ダメ」をまずは自覚しない限りは、「ダメ」じゃない自分になる為に、何もスタートしないのだと思っています。
実は、何かのスタートは、できる自分ではなく、まだ何もできていない「ダメ」で「何物でもない」自分の自覚からです。
そうじゃないと、何かができるようになる為の、昨日とは違う、努力などというクソ面倒くさい変化をスタートできません。
そんな当たり前のことに気づけてもいないくらい「ダメ」なわけです。
だとすると、大谷翔平さんのパネルの横に立ってみて、
「なんだこれ、何もかも違っていて、同じ人間なのに、オレ全然ダメじゃん。」
と思えている自分というのは、まだ次のステージに向かう可能性がある、まだ行けんじゃねぇか?、とも解釈できるわけですね(笑)。
「その人にようになれない」から自分はダメだ、あの人が羨ましい、なれていない自分はダメだ、などという「比較対象」は、単なる幼稚。
そうやって生きて行けばえぇがな。俺は知らんよ。
「人と比べてもしょうがない」という体の良い言い訳を盾に、自分という存在に向き合わないのは単なる逃避。
そうやって生きて行けばえぇがな。俺は知らんよ。
「その人はこれがある。」、でも「自分にはこれがある」という「比較対象」は意図的にでもしていくことにこそ、自分の人生がある。
私はそう思っています。
というわけで、
いいもん、野球なんてできなくても、オレ、大谷さんができない他のことが一杯できるもん(笑)。
えっと、廃業した経験もあるし、上場した経験もあるし、プロレスの話もできるし、お絵描きも好きだし、子供みたいな下ネタもキャッツキャ喜べるし、保護者面談で学校の先生にこの子は大人なってから苦労しますよって先生に言われて親がショック受けてたし・・・・・、
・・・・・・・・・・・、
・・・・・・・・・・・、
ダメだ、オレ、要するに、結局、全然ダメじゃん(苦笑)。
まぁいいや、ダメな数だけは唯一勝ってそうな気がする(笑)。