自分はスカスカな人生だという思い込みを一発で逆転する方法

歳を重ねるごとに、

人と会うと、

その人の立ち振る舞いや、所作や、人との関わり方を見るにつけ、

その人が、それまでの間に、

どれだけの人と、

どれくらいの深さで関わり、

どんな経験をしてきたのか、

何となく透けて見えてしまうのだろうな、と思うことが多くなっていく気がします。

 

矢面に立ち続けてきたのか、

うまく逃げ回り続けたのか、

批判にさらされてきたのか、

傷ついてきたのか、

ぬるま湯に浸かってきたのか、

過酷で厳しい環境で越えてきたのか、

受け入れたのか、

受け止めもしなかったのか、

人と向き合ったのか、

自分と向き合ったのか、

多くの人と関わったのか、

都合の良い少ない人とだけ付き合ってきたのか、

一人当たりと深く真剣に向き合ったのか、

都合よくうまく適当に付き合ってきたのか、

自分の答えを出したのか、

依存したのか、

チャレンジしたのか、

逃げたのか、

自分で選択したのか、

人に委ねたのか、

考えたのか、

感情のままに動いたのか、

 

ほんの些細とも思える、その時その時、一つ一つの、その連続が、

その人の人生を創り出し、

創り出した結果は、今この瞬間のアウトプットの全てが結果となって証明され、

それはもう、何をどう取り繕おうと、どうしようもなく、

顔も、仕草も、所作も、言葉も、声も、

何から何まで、ただただ晒されて、

無理してようと、自然だろうと、

他人の一方的な価値観と今で評価される。

残念ながら、人は自分のことは棚に上げて、人を観ては一撃で見抜くことだけはしてしまう。

一撃なのです。

一撃で勝手に誰かのことを評価して生きています。

 

私は私の基準で他人を勝手に評価するように、

私の今この瞬間は、全ての他人の、一人一人の勝手で評価される。

私のアウトプットを面白いと言う人もいれば、

面白くないと言う人もいる。

どんな評価を社会から受けようと、今更ながら、それが、普通と言えば普通であり、

そういう場がいわゆる社会というやつなのだと思います。

 

人は、人前に立つと、良く見られたいと思うのだと思う。

それはリアルな場でも、SNSの発信でも、このブログにせよ、

多くの人に見られる前提の場においては、多かれ少なかれ意識するのが通常の神経だし意識でしょう。

ただ、良く見られたいと思えば思うほど、良く見せようとしているのが透けて見えるリスクも比例して付き纏う。

だとすると、自分とは何者かということを他人に伝えるには、

自分は、具体的に何をやって来たのかの事実だけしかなく、

それをどうぞ好きなように評価して下さい、というのが最も潔いということなのでしょう。

 

人は、自分がやってきたことは自分で肯定したい。

良い評価をされれば嬉しいし、悪く言われれば悲しいというのは本能だとして、

ただ、伝えたとて、

それが何なんだ、と思う人もいるし、

それは素晴らしいと、思う人もいるし、

アホかと思っても、素晴らしいと言う人もいるし、

素晴らしいと思っても、アホかと言う人もいるだろうし、

今日、アホだと思っていても、明日変わることもあるだろうし、

その逆も、当然あるだろうし、

聞いてもいない人もいるだろうし、

興味すらない人もいるでしょう。

要するに、結局のところ、他人が自分をどう思っているかなど、分からない。

あるいは、思ってもいないかも知れないことすらも分からない。

評価は常に第三者でありながら、その第三者が何を思っているのかなど、結局のところ分からないし、

その第三者本人もまた、その時思ったことが本当なのかどうかすら分かっていないというのが、

本当のところなのではないか?

と思うわけです。

 

だとすると、

どうせ結局のところ、分からないのなら、

都合よく、自分は人からこう思われている、と勝手に思っておくことが、

最後の開き直り、切り札、としては最も効果的だと思うし、

逆に、何がどうあれ、私の周りの人は、みんな素晴らしい、と信じて疑わないことが、

最も生きやすい究極の思い込みなのだろうと思うわけですが、

ただ、そうなると、今度は、

自分にも他人にも、興味がない状態という究極の状態とも同義となってしまうリスクが出てきます。

最後は、相手のことを、どう思って、言うか言わないかの選択を勝手にしておくというのが、

一番いいのだろうな、となって、それじゃあ、今までとかわらないじゃんか、と一周回って、元に戻るだけになるのだけど(笑)、

ただ、この「一周回る」ということに実は意味があって、

どんなに透けて見えてしまう人に対しても、そう思わせてくれて「ありがとう」、

という敬意は、今までとは違って持てるようになります(笑)。

 

この「敬意」をもっておくことが一番いいのだろうな。

ということは、今までと変わらぬ感情とアウトプットをしていればいいので、無理することはなくて、

ただ、相手に対して敬意さえ持って「ありがとうございます」の気持ちさえ持っていれば、何を感じても言ってもいいのだ、

というのが、姑息かつ最強の方法なのだろうな、

と、フと思うことが先日ありました。

「あんた、ペラッペラで、クズでク〇で、なのに、人からどう見られたいかばかり気にしてるから、どんどん人から呆れられて、離れていくんだけど、それすら気が付いていないわけだから、もうとうしようもないのだけど、

それを気づかせてくれたあなたはなんて素晴らしい。本当にありがとう。」

で、最後に完結させて、終わらせてしまう(笑)。

敬意を持たれて嫌な人はいないと思うわけです(笑)。

それは、テクニックではなく、本当に敬意を持てるから、嘘や礼節でもマナーでも強制でもなく、シンプルに「敬意」なのですから、嘘はありません。

さらに、自分にも、結局のところ「素晴らしい」という言葉でポジティヴな思考だけで終わらせると、

特に根拠ないけど、自分は素晴らしいと「思い込める」わけで、

何の努力も労力もかけず、でも、自分はスカスカではなく、素晴らしいと反転できる最強の方法です(笑)。

そうすれば、そういうどうでもいいようなことに、いちいち脳を使って、人生時間をなくしていくことなどやめて、

本来やるべきことに、脳と神経と筋肉を使って、それこそ自分の理想とする素晴らしい人生とやらへ一歩でも向かえるでしょ、

と思うわけです(笑)。

 

フ、という瞬間にしては、それをあまりに長い文章でしつこく書いてしまう自分は、

果して、人からどう思われるのだろう?と気になって仕方ありません(笑)。

あぁ、なんて素晴らしい(笑)。

こういう問題はキリがないから考えないのが一番いい(笑)。
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