「足し算」が足らないのか「引き算」ができていないのか
結局のところ何が伝えたいのか?
元々、口数が多い、言葉数が多い、文字数が多い私は、
何かを伝えたい時は、伝えたいが故に、口数も言葉数も文字数も多くなる。
手術以降この一年くらい、喉が枯れて、
声を出すのは辛くはないが、声を出すことが前提は以前より以前のように喋りたくて仕方ないというようなことはなくなった。
できれば、「要するに」何が伝えたいのかを、
キチンと固めておかないといけないなぁ、と以前よりも思うようになっていて、
でも、その割には、
毎日Facebookライブで喋りまくり、
仕事の場では喋りまくり、
ブログを文字数をしつこく増やしたりしてるわけだから、
何も変わっていないわけです。
時に、私は「引き算」ができていないかもしれない、と仮説は立つのですが、
同時に、「引き算」をした結果、自分には何も残らないのではないか?
という恐怖があるのかも知れないと思います。
もし、明日死ぬなら、今日何を伝えるのか?
と問われると、実は固まりきっていない自分を、自分でよく分かります。
手術後に、声が枯れたり、喉が痛いとかが慢性化していて、
まだベラベラと喋れるのだけど、
もしかしたら、いつか声を失う時があるかも知れないと思うようになりました。
同時に、
「あと一回だけ、時間は10分だけ講演させてあげるよ。」
となった時、私は一体何をこの声を使うのだろうか?
ということも考え始めます。
表現方法は幾多あるわけで、こうしてブログを書くこともできるのですが、
本質的には、同じで、
「あと何文字だけ」
という制限が入ったら、と考えると、同じことです。
話を戻すと、「引き算」しまくって、研ぎ澄ませればいいかも、
となるのですが、
もしかしたら、引き算する前に、積み重ねたものが実はないかもしれない可能性もあります。
これまでの人生で、積み重ねた「足し算」そのものが、本当は私にはあるのか?
という疑問も発生したりします。
「要するに何が言いたいの?」
「結局のところどうしたいの?」
「纏めるとどうなるの?」
他人には聞きたくなる時があります。
その答えは、まるで他人にするように、
自分という他人に、自分がしてみる、
ということを自分でしてみる必要が出てきているかも知れません。
もしかしたら、次のビジョンに向かっている時なのでしょう。
本当は、スカスカ野郎なのか、
研ぎ澄ませばいいのか?
要するに、
「考えろよ、俺」。
はい、分かりました。