自分の明確な自覚はいかに儚くもモロいのか?
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「価値観」というのは、それまでの人生から、自分は明確であるという自覚を持っていたとしても、
出来事や環境変化によって、いとも簡単に変わってしまったりすることもあって、
ある意味、それまで自分を支えていたものが、いかにモロく、儚いものだったのかと思い知らされることはあるものだと思います。
「価値観」の定義を、「体験・経験から得た固有の感情」とするなら、
新たな体験や経験をする度に、自身の価値観というものは刷新されていく可能性は高くなるわけで、
それはそれで豊かな人生を重ねるということになるのかも知れません。
私は私で、この3月というのは、
自分の直接の体験・経験においても、
直接は関係ないながらも、環境変化や、リアルな情報に触れることにおいても、
一つのことに対して、それまでとは違う選択や行動をする自分がいる現実があって、
これまで、明確だと信じていて、ゆえに恐らく変わることがないだろうと自覚していた価値観は、
大きく変わるのではないか?という感覚に包まれている昨今です。
2013年からスタートした無職というステージは、
気づけばはや9年が経過しており、
そろそろ次のビジョンに向かわないと生きた心地がしなくなっていて、
一年くらいかけて、新たに創り上げていきたいと思いながら準備に入っていることを鑑みると、
不思議と、そういう歯車は噛み合っているということなのかも知れません。
あるいは、今やってることの正当性を後付けのように納得させてようとしているだけなのかも知れません。
以前、それなりに自分と向き合い、納得したビジョンは、
それに近づくにつれ、あまりにも儚くも、魅力的ではないことに気づいてしまう切なさや、
言葉にできないような、えもいわれぬ悲しさや、切なさや、絶望感を感じたりしながら、
でも逆に、まだ大きく伸びしろが残されている自分の人生や、自分の可能性の大きさに期待できる喜びもある中で、
過去の延長線上にはない「価値観」の変化を感じているのなら、
そこには素直に付き合いたいと思っています。
見えそうで見えない悶々とした感覚に身悶えながら、
明確になるまでは、それでも今日という現実を生きていかねばならないわけで、
無力感に包まれようと、絶望感に覆われようと、
ただ一つ言えることは、「今ここ全力」の意思決定だけはしておきます。
「やる気が出る」だの「出ない」だの、「面白い」だの「面白くない」だの、「楽しい」だの「楽しくない」だの、「面倒くさい」だの「くさくない」だの、「つまらない」だの「つまる」だの、
そういう個人的な感情を前提にして、やるとかやらないとか、
そういうことを言ってられるというのは、いかに平和で安全が担保されている範疇のお遊び程度だったのではないか?とも思えてくるわけで、
ならば、せめてまだ平和で安全なうちに、目の前に現れて、かつ、自分が選択したことであるなら、
その時の刹那的な気持ちや気分がどうあれ、
やはり全力で向かうことが、最低限の生き方であること、そのくらいしか、
せめて今の私が人様にさせて頂けることはないのだろうと思っています。