自分が大事なら「感情」を「要素」にまで落とし込んでみる

オンラインサロンのメンバーに、

「どうしてここに参加することにしたのですか?」

と必ず質問します。

 

様々な理由がありますが、多いのが、

「面白そうだから。」

という答えです。

 

ビジネスに関する場が「面白そう」というのは、主催の私としては果たしてえぇんかい?とは思うものの(笑)、

それでも私にとって「面白そう」というのは肯定表現であることに変わりはなく、嬉しく思います。

 

でもそんなこと、質問意図としてはどうでも良くて、

「何が面白そうだと思ったのですか?」

続けて質問します。

 

例えば、それが、

「やっぱり、まず、ツヴォイさんを知っていて、そのツヴォイさんが面白いので、ツヴォイさんがやっているサロンは面白いと思ったからです。」

となるとします。

 

そうなると、私はさらに、

「具体的に、私の何を見て面白いと思えたのですか?」

と続けます。

 

その人が、オンラインサロンを知って、入会に至るまでの、

何らかの対象の、具体的なアウトプットを受信し、

何らかの肯定的な影響を感じたり、共感しない限り、メリットを実感しなければ、実際の行動には至りません。

 

上記の例で言えば、

その人が生まれてから今日に至るまでの間に、

ツヴォイがアウトプットしている何らかの情報・・・・、

それは、時に姿形だったり、仕草や所作・態度、顔つきや目つき、背格好から髪型・ファッション、

時に、言語だったり、画像、文章や、話すイントネーションや間合い、返しの言葉、他人との関わり方といった、

私がアウトプットする情報全ての、どこか一部分や、いくつかの具体的な要素の何かに対し、

共感したり、メリットを感じて、

そして、「この人は面白い」、あるいは「この人がすることは面白いだろう」という印象を持ってくれたから、

次の行動へ移してくれた、ということになります。

 

では、全人類が、ツヴォイに対して、そう思えるかと言えば、当然ながらそうではありません。

ツヴォイなんて面白くも何ともない、いやむしろ、嫌いだ、それどころか胸糞悪いから見たくもない、という人もいるでしょう。

(それがあまりに多いのではないか?と結構心配にはなる(笑)。)

 

ということは、ツヴォイがアウトプットしている情報は、ツヴォイ一つなのに対して、その情報を受け取る側によって、ツヴォイという人間の印象や、人格というのが決まるわけで、

ということは、ツヴォイを決めているのは、ツヴォイではなく、ツヴォイのアウトプットを受け取った側であり、

受け取った側の価値観が、ツヴォイを良くも悪くも決めているわけで、

ということは、

ツヴォイを面白いと思った人は、実はツヴォイではなく、その人が「面白い人」で、

ツヴォイをクソ野郎だと思った人は、実はツヴォイではなく、その人が「クソ野郎」だという、

そういう論法が成り立ちます。

 

相手に対して、好きとか嫌いとか、良いとことか悪いとことか、まぁ、そういうことを感じる時は、

実は自分の中にある自分の価値観を明確にしているだけです。

何もなければ、相手に対して、何も感じることはできないわけで、何かを感じるということは、その価値観があるから感じることができるわけです。

 

私は、ある研修を受けた時に、この理屈を強烈に納得できたことがあって、

それ以来、相手に対して、いかなる感情が沸いた時も、その感情は、自分のどの具体的な体験・経験から来るのだろう?と考えるようになって、

だから、基本的には、相手に対してどんな感情を抱こうと、

「私という存在を認識させてくれてありがとう。私の為にそこにいてくれてありがとう。」

と思えるようになりました。

 

こと私自身のことで言うなら、私は他人に興味があるのではなくて、他人を通して知る自分に興味があるだけ、というのが本音です。

私は誰よりも、まずは自分が一番大切で大事です。

自分には絶対的で圧倒的な価値があると信じています。

具体的ではないにせよ、明確な根拠などないにせよ、それだけは信じられます。

 

私のみならず、人は誰でも、そういう存在であると、故に信じています。

 

だから、人の良いところの話も、悪口も好きです。

悪口なんて大好きです(笑)。

陰口は、その人の前では言えないことだから陰口になるから。それは好みませんが、悪口というのは、その人の前でも正々堂々と言うのであれば、私はアリだと思っています。

まぁ、そのあたりが毒舌とか、恐いとか、そう言われる由縁かもしれません(苦笑)。

 

ただ、それは、私自身の、「良いところ」「美しいところ」「カッコいいところ」「すげぇところ」といった、

「肯定的なところ」を、私自身が私に知るということであり、

 

逆に、私自身の、「悪いところ」「ひどいところ」「卑劣なところ」「冷たいところ」「ひどいところ」といった「否定的なところ」を知るということでもあります。

 

私は、私が自覚する私自身の、全部をひっくるめて「自分」であると思っていて、ひっくるめて価値があると思っている不遜者ですので(苦笑)、

できるだけ知りたいし、まだ見ぬ自分にも会いたいと思うので、平気で他人に対して、自分の勝手で印象を持って、

それを言うか言わないかは別として、

それは、なぜそう思ったのだろうか?と、できるだけ考えるようにはしています。

 

他人のアウトプットの何かの要素がそう感じさせてくれるからであって、

「カッコいい」「面白い」と思えた要素は真似すればそうなれるという仮説が成り立つし、

「クソだな」「嫌だな」と思えたことは、その行動をしないようにすれば、他人からはそうは見られないということにもなります。

 

それしか、理想の自分になる方法を私は知りません。

そして、それが「自分を信じる」という唯一の証明になるとも思っています。

 

私は時々「他人に、よくもまぁそんなに興味がありますね?」と聞かれることはありますが、

繰り返しになりますが、私は、他人そのものに興味があるのではなくて、他人を通した自分に興味があるだけなのですね(苦笑)。

 

 

話を戻します。

よって、私は、質問する相手を知るには、その相手(Aさん)が、

例えば、前出の具体事例の、『ツヴォイの何を見て「面白い」と思ったのか』を知ることで、

Aさんのことを知る、ということであり、実は、私のことを何と言おうと、それはAさん自身のことであり、

私には大して関係ないことということとして聞いています。だから正々堂々と聞けます。

もちろん、自分のことを良く言ってくれたら、気持ちいいに決まってはいますが(笑)、

もっと大事なのは、そこにこそ、Aさんの「独自の価値」の価値のヒントが隠されていと信じているからです。

どちらにとっても嬉しいことなのだから、こんなにハッピーでいい方法はないとは思っています(笑)。

 

ビジネスの基本は、

「他人の何らかのメリットに対して、自分の持っている価値で貢献すること」です。

それなら、自分が貢献できる価値に気付くことがまず大切であり、それを意識的にアウトプットしていくことがさらに重要なことでしょう。

 

時に、人の批判や悪口を、さも自分は分かっている側だと言わんばかりに、聞いてもいないのに、自慢げに延々としている人はいますが、

私は、ずっとずっと聞きながら、

「この人、よくもまぁ、ここまでおぞましい自分を完全自己紹介しているなぁ・・・・。」

と思って、延々と聞いています(苦笑)。

当然、できる限り、お付き合いはしないように努力します(苦笑)。

 

人の中身までは、結局のところ分からないし、仮に分かったとしても、その人になれるかと言えば、それは無理です。

しかし、

「この人はなんて美しい心を持っているんだろう」「この人はなんて面白いんだろう」「この人はどうしてこんなにカッコいいんだろう」

と、その人の何かを見て、自分の心で感じたならば、それは、その時点で自分の中にすでにあるという確信であることになるわけで、

あとは、その対象者の何から何までを、穴のあくほどに観察し、その要素の一つ一つを認識して真似ることは、十分に可能です。

 

それが「他人から学ぶ」ということであり、「自分自身を知る」ということであると思っています。

 

時に、他人に興味がない人と言う人と出くわし、とても残念で、怒りにも似た感情を私が抱くのは、

一番大事にしなければならない、誰あろう自分自身のことに興味がないということと同義に思えるからです。

他人のスゴイところ、良いところ、好きなところを具体的に言えなくなってきた時、

それは自分のそういうところのストックがなくなってきた時や、枯渇してきたのではないか?と心配になったり、

自分のスゴイ価値に限界があるのか?とヒヤヒヤする時があったりもするほどです(笑)。

 

もし、自分という存在が何者であるかを知りたければ、他人を観て、まずは素直に感じるままに感じてみることだと、私は思っています。

そういう意味で、自分を教えてくれるのは、他人という尊い存在であると思っています。

自分が一番大事で大切である私が(苦笑)、自分を大切にするのに一番おススメできる方法と言えます(笑)。

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