果たしてダメな奴はどこまでダメなのか?(苦笑)
白×ブルー基調の爽やかなマリン基調の店舗がありました。
まるで80年代の、大瀧詠一さんのレコードジャケットや、
「わたせせいぞう」さんのイラストレーションに代表されるような、
当時に青春時代を送ったアホ丸出し世代にとっては憧れの世界観だったりして、
写真を撮ったらどんな感じになるんかなぁ?と思って撮ってみたら、
まるで似合わないオッさんが突っ立っているだけ状態に、いささかのショックを隠せませんでした(苦笑)。
今更ながら、似合わないものは、どうあがいたところで似合わないというわけですね(苦笑)。
まぁ、そもそも「似合う」とか「似合わない」とかの基準はどこにあるか?というと、極めて曖昧で無責任なものだったりしますからね。
例えば、同じ服を着ても、誰かは「似合う」と言うけど、誰かは「似合わない」と言うことはあるわけで、
① 自分に似合う服を着たいと思っている人は、他人からの「似合う」「似合わない」の評価は少なからず必要なのでしょうが、
でも、誰かに「似合う」とおススメしてもらって、その気でいたところで、他の誰かから「似合わない」と評されることはあるわけだし、
② 自分の着たいものを勝手に着ていたい人にとっては、他人からの「似合う」「似合わない」などという助言などは大きなお世話なわけで、
でも、他人からの評価などどうでもいいと思っていても、他人が「似合う」と言えば、意図せず似合う人になったりもするわけです。
そうなると、「似合う」「似合わない」などというのは、極めて個々人における属人的な感覚で、明確な基準などないとなりますね。
評する側が、好き勝手・無責任に言いたいことだけ言っている、ということなのでしょう。
強いて言うなら、「似合う」と言われたい人から、「似合う」と言われれば、それでいいということなのでしょうね(笑)。
まぁ、恋人とか、憧れの人とか、プロとして信頼しきっている人とか、そういう対象が「似合うね」と言ってれば、
本当のところがどうなのかはどうでもいいことだったりするとも言えるのでしょう(笑)。
自分個人のキャラクターを明確に自覚できるかどうかというのは、極めて重要なれど、
口で言うほど簡単ではなく、それはとても難しいことなのだろうなと思います。
あ、そうか、女性から人気を得たいと思うのなら、
髪型だろうと、服装だろうと、なんでもかんでも、どうでもいいから「可愛いね」「似合うね」「綺麗だね」とだけ言ってりゃいいのか(笑)。
素直に本音の感想なんて言わなきゃいいんだな(笑)。
という無茶苦茶な論法が成り立っちゃうな(苦笑)。
個人のキャラクターに合った服装かどうか程度なら、まぁどうでもいいことかもしれませんが、
その服装も含めたトータルイメージをキャラクターと称することはあるわけで、
そうなると、それはそれで無視はできなく、一つ一つの要素の組み合わせを意図するかどうかはとても大事なのだろうと思います。
キャラクターに合った仕事、キャラクターに合った発言、キャラクターに合った発信、キャラクターに合ったライフスタイル・・・・。
など、ぴったりと当てはまっていると感じる人というのは、とても輝いて見えるし、やはり素敵です。
「その顔で、その髪型かよ?」
から始まり、そんなのはどぉでもいいとしながらも、
「その顔とその髪型で、その服装かよ?」
「その顔とその髪型とその服装で、その背景かよ?」
「その顔とその髪型とその服装とその背景で、その発言かよ?」
「その顔とその髪型とその服装とその背景とその発言で、その仕事かよ?」
「その顔とその髪型とその服装とその背景とその発言とその仕事で、その◯◯かよ?」
と、積み重なっていくことで、ドンドン膨らむキャラクターというのは、キリなく続いていったりします(笑)。
人はどこかで、自分のことをより良く魅せようとするだろうし、
より良く見られたいという欲求を持っているのだと思います。
誰より私なんてのは、その塊みたいなもんなわけで(苦笑)、
それ自体は決していけないことではなく、むしろ適度に欲求していないと社会適合はできないと思ってはいます。
ただ、しかし、誰もがその欲求は持っているとして、
誰もが持っているのに、それが
「無理なく似合っている」と感じる人と、
「ちょっとでも良く魅せようとしている」と透けて見えて滑稽な人、
に分かれるのだろう?その差や違いはどこから来るのだろう?と思うわけです。
と、まぁここまで書いてきて分かってきたのですが、
今の身の丈・実力以上に魅せようと意図したり、評価されたいと透けて見える時に、
不快や滑稽さや「おぞましさ」をもよおしたり、哀れな感傷に包まれるのでしょうね(苦笑)。
不細工は不細工通りにしていれば気楽でいいものを、
もしかしたら、それでもまだ「自分らしく」よく似合う自分がいるのではないか?と、探し続けるわけですが(笑)、
じゃあ、「古びた石畳の街角」っぽかったら似合うのか?というと、
やっぱり、単なるオッさんは、単なるオッさんでしかなく(苦笑)、
じゃあ、アメコミ調の壁紙なら、少年のような魅力を持った大人の男性に見えるか?というと、
どう見ても、「調子ブっこいて、いったい何やってんだ、このオッさん」としか見えない程度のオッさんでしかなく(苦笑)、
結局、努力したところで、似合わない奴は、何やっても似合わなくて、
要するに、ダメな奴は、何やってもダメってことにしかならないなんていう、
身も蓋もないという結論にしかならないわけで(苦笑)、
だから、それくらい、「自分という存在」をいかに自覚するか?というのは難しいと思うわけです(苦笑)。
こうなると、もう、やりたいことを勝手にやって、自分は似合っていると勘違いでもしながら生き続けて、
そんな中から、もし見つかればとてもラッキーで、
見つからぬまま勘違いして死んでいく人の方が圧倒的に多いのでしょうね。
そういうものなのかもしれんな、と割り切ってしまえば、幾分かは楽に生きられるってもんでしょう(笑)。
「自己承認」と「他人から是認」の狭間でもがきながら、
そのバランスを、行ったり来たりしながらも取りながら、
それすらも含めて自分というものを「客観視」できる自分でいたいと願うばかりです(笑)。