「身の丈以上」に挑むべきかどうか?
温泉に行ったら、身長計があったので、測ってみたら、
身長計が150センチまでしかなかったから、測れませんでした(苦笑)。
それどころか、今にも脱ぎそうな寝巻き状態のスウェット上下スタイルが恐ろしく間抜けでした(苦笑)。
人前に出ると、身の丈以上の自分を出して、良いカッコしたくなる衝動に駆られるのだろうけど、
そんなのは、見てる方からしたら、化けの皮はすぐに剥がれてるわけで、
それは恐ろしくカッコ悪く見えるので、
自分は、そんなカッコ悪いことはしたくないので、いつも身の丈に合った自分でいたいと思うものの、
かと言って、身の丈以上のステージに挑戦していかないと、いつまで経っても成長はしないじゃないか?という葛藤も生まれるわけです(笑)。
まだ知らないことを、ちょっとかじった程度に知ったからといって、吹聴したがるのは薄っぺらく感じるし、
自分の主張でしかないことを、あたかも人としての正しさを諭すように言う人には、謙虚さを感じなかったりもします。
知らなかったことを知ろうとしている時は、まだ知らない状態といえるわけです。
でも、そんなこと言ったら、いつまで経っても何も喋れなくなるし、情報発信なんて一生できなくなるじゃん、となるわけで(笑)、
そうなると、発信側にまわった時は、
「果たして自分はそんなことどのツラさげて言ってんだよ。」
と、自らに問いながらも、
その時までの体験・経験と知識の総和を、あくまで個人的見解ながらという謙虚さを持ち合わせながら、
その場その場で全力で出すしかないということになるだろうと思っています。
前に出る人というのは、良かれ悪かれ見ている側からは批判にさらされるわけで、
見ている側の数が増えれば増えるほど、そのリスクも増えていくのだろうけど、
「批判にさらされながらも、前に出ざるを得ない経験を積んできた人」と、
「できるだけ前に出ずに、批判する側に終始している人」とでは、
次の何かのタイミングで前に出た時の「身の丈の差」に、違いが出て当然なのだろうし、
その積み重ねが人生をつくっていくとしたら、恐ろしいと思ったりします。
そう考えると、他人からの一方的な批評・批判というのは、決して気持ちのいいものではないのかもしれないけど、
批評・批判をされることや、自分という存在を透かして見られることそのものが、前提であると割り切って、
人前に出て喋ったり、情報発信を積極的にする人というのは、
それそのものが、次のステージへの練習であり、経験とも言えるのでしょう。
あとは、自分が、
「前に出て批判にさらされながら、一つ一つ体験・経験を積み重ねる側」でいたいのか、
「前に出ている人を、いつもいつも批評・批判する側で、いざとなった時にあまりに哀しい自分を突き付けられる」のか、
どっちでいたいか?という選択の問題であり、
ひいては、どんな生き方をして死んでいきたいかということになるのでしょうね。
醜いのは、前に出たいのだけど、その実力も実績も勇気もないし、リスクも取れなくて、
でも、批評や批判だけは人一倍一人前というやつですね。
最後は無視されるしか道はないのだけど、でも、認められたいわ、やりたくないわ、でも、喋りたいわ、誰も相手してくれないわと、もう底なし沼の泥沼です。
底なし沼に浸かったら、あとはもう沈んでいくしかありません。
まだ成長しているうちは、自分が何センチのところにいるかも、どこまでいけるのかもよく分からないわけで、
どこが天井なのかも分からないながらも、どこまで行けるかに挑み続けていることになるから、
本人の自覚がどうあれ、その姿を側からみると、それは、挑戦や成長し続けている人と見られるのかも知れませんね。
他人から見て、「成長している人」「挑戦している人」「成果を出し続けている人」「成功している人」という人というのは、
当の本人は、その自覚などなく、ただただ興味のある方への高みを目指しているだけかも知れないとも思います。
というわけで、
とりあえず身長計を越えている自分の間抜け姿は、何を示唆しているかと思うと、
きっとまだ見ぬ天井へ向け、今も成長している現実が、図らずも現れたのだろう、と思い込むことにするのでした(笑)。
要するに、「単に子供用の身長計だっただけだろ!無理矢理こじつけて、いちいちうるせぇな!」と、批評・批判されるということなんですけどね(苦笑)。