突き抜けている人は実はバランスしている

感動するのは人生の中でとても大切なことだけど、

感動ばかりしていると、感動しなくなるというラビリンスが待ち受ける。

毎日、毎日、頑張って何かと感動しようとしている人は、無理して感動せねばならないような、まるで何かに脅迫されているかのように感じることがある。

頑張って感動しなければ、感動できないような日常なのか?

それは、毎日の中に感動がないということでもあり、よほど毎日がつまらないのではないか?

すなわち、感動のない人生を送り続けている、とも思えてしまうのだ。

 

同様に、

「楽しむ」のは人生でとても大切だけれど、楽しんでばかりいると、

それが普通になり、楽しくなくなるというジレンマが訪れる。

毎日、毎日、何とか頑張って楽しくしようと頑張るということは、

頑張らないと、日々の日常の中に、何の楽しみも見出せないような不幸な人生を歩んでいるのではないか?と疑心暗鬼になってしまう。

 

人の脳というのは次から次へと「快」を求め続け、それが切れると、また欲し続ける。

◯◯中毒、◯◯依存性、と言われる状態がそれに該当する(らしい)。

 

それを自覚していればまだいいが、それが無意識になると、

「無意識=自分は普通」だと自覚しているが故に、

異常に気づかずにそのまま進み、はたから見た異常に自分では気づかない。

 

はたから見ている人は、異常な存在を避け始め、異常な本人は孤立する。

孤立すると、同類を求め、同類と一緒にいると「所属の欲求」が満たされ安心する。

そうなると、自分を認めてくれる、心地良い異常同類コミュニティとだけしか生きられなくなる。

 

それでいいなら、いいし、一向に構わないが、

社会というのは、自分以外の価値観を持った人との関わりであり、

ビジネスとして関係を成立させたいのならば、自分以外の他人との関係創りは、なおさらである。

 

よって、ビジネスとして成立させるには、どんなに逸脱しようと、独自性でつきぬけようと、

最低限の共感者数は必要となる。

 

自分の属人的な価値観を、自分以外の他人の一定数と一致させるということなのだから、

ビジネスにおいての「逸脱」「独自性」「個性」「らしさ」「感動」「楽しむ」という属人的な魅力や価値を、標榜したモデルで進みたいのであれば、

それが単なる「変人」「病人」「異常者」という社会不適合者になっているのか、

社会における必要最低人数からは共感されるだけの社会性は持ち合わせているのかは、

その違いを自らがどこで認識するかは大きなポイントであり、

自分も社会も含めた客観性を持てるかどうかの視点は極めて重要といえる、と私は思うのです。

 

「他との違いがなければ、誰からも選ばれない。

他と違い過ぎれば、誰からも選ばれない。」

このジレンマとも言える、「自分と他人」、あるいは「自分と他人の集合体」、すなわち「自分と社会」をバランスさせるということは、

どれくらいの枠組みや領域で、何人と関係していきたいか?という、

そもそもの「ありたい姿」がどこにあり、明確に見えているかどうか?ということに、最後は尽きるのではないか?と考えています。

 

個人嗜好と社会全般は、そもそもが二律背反している。

理念と利益は、そもそも矛盾しているから、どこかで引っ張り合う。

逸脱と社会性は、そもそもバランスしていない。

独自性と普遍的というは、元々が相反する。

どの切り口から見ても、自分の喜びと、他人の喜びは、「厳密」かつ「永遠」に一致させ続けることは、そもそも不可能である。

 

そもそも社会で生きたり、ビジネスを成立させるということは、

前記した不可能とも思えるようなことを、何とかして可能にしていこうとする目論見であり、行動行為であると言える。

だから、自分の人生を、人として生きていく上での学びや気づきがあるのだろうし、

人間として、とても尊い行為なのだと思っています。

 

そうなると、「社会の中での独自性や逸脱」の説得力を持つために、まず欲しいのは、

誰もが認めるだけの圧倒的な「実績」であると思える。

「実績」がないと全てがダメではないにせよ、手っ取り早いのは「実績」であることは確かであると私は思っている。

「実績」が見えない主張や大論や評論や教えは、まるで説得力がない。

ないどころか、見たくも聞きたくもない遠吠えであり、滑稽であり、面倒であり、迷惑であるとすら思える。

聞く前の、聞く耳すら持たれないのである。

「商売ってこうだ。」「ビジネスとはああだ。」「人は誰でもこうだ。」「人生とは・・・」、などと、

分かったようなことをどんなに口で言っても、「あなたが分かる根拠なんてどこにあるの?」「何で分かったと自覚できるんですか?」となる。

 

では、「実績」はどうやってできるのか?と言えば、最初から「実績」のある奴なんていにいのだから、

「実績」のないうちから、何かに向かって頑張り続けて「実績」を作り上げるしかないわけで、

認められる実績ができるまでは、つべこべ言わない方が、他人からの好感や応援が集まるのではないか?と経験則の上では思っています。

 

そもそも、「実績」のある人は、偉そうにしていなくて、偉そうなことも言わなくて、

「教えて下さい。」と言われて、やっと、自分の実際にやってきた事実だけを伝えるということをしています。

 

ということは、教えようとしなくても、結果として教える側に回ってしまうまで、

頑張って何かに向かっている姿を、そのままに伝えることが有効なのだろうと思えます。

 

ブログやSNSの発信というのは、多くの人にさらされるのが前提な訳で、

全包囲網でさらされる以上は、そういう謙虚さは前提として持っていないと、

自分の愚かさや滑稽さを露呈しているだけに過ぎないリスクがあることは、

私は、自分が可愛いだけに認識しておきたいと思うのです。

 

楽しいことがあれば、辛いこともあればいい。

嬉しいことがあれば、悲しいこともあっていい。

独自の価値を持ちたければ、他人の価値も認めればいい。

逸脱したければ、社会一般がなくては成立しない。

片方あれば、もう片方があっていい。

 

そんなことを、

珍しくホットコーヒーを飲んで、ストローを鼻から出すことができなかったので、スプーン片目をして、片目ウルトラマラソンごっこをしていたら、

両方を見る目と心が必要なんだな、というようなことを思いついて、

ただ、アホ画像を出したかっただけなのに、ついつい長文になってしまって、

故に、この記事に、何の実績も説得力もなくなっていることに、

自らの滑稽さを覚えて、切なくなっているところです(苦笑)。

 

 

片方があるということは、もう片方があるということなんだよ。
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