「価値」の本質が問われる時代と、明確でない時の言い訳(苦笑)
AIが当たり前になってきている中、「業務効率化」の文字が当たり前のように出てくるのだけど、
まぁ、当たり前ながら、「効率化」そのものには価値がない。
「業務効率化することによって価値が上がる対象においてのみ価値がある」
というのが正しい見解と思うのです。
仮に「業務効率化」して、空いた時間を使えたとして、何をするか?というと、
ゆったりとした時間や、あえて不便なこと、不効率極まりない時間に価値を見出し、そこにわざわざ時間とお金をかけに行ったりするのが人間だったりする。
例えば、最新の最新鋭のオフィスでハイテク機器を使って仕事して業務効率化した結果、何をするのかというと、
わざわざスマホの電波すら届かないような不便な山奥まで時間とお金を使って行って、労力を使ってテントを張り、自分で食べ物を採って、自ら火を起こして、食べるのにやっと、という、片方では時間を不効率極まりないことに価値を見出すのも誰かにとっては圧倒的な価値であったりするわけで、
それに対して、そんな不効率なことしなくて、クーラーの効いた部屋で何もしない方が効率的じゃん、と言っても、それは、わざわざキャンプに行く人にとって価値とはならない(笑)。
私で言うなら、今まで何時間もかけて自分で描いていたヘタクソな「お絵描き」を、
AIが、もっと上手く動画にまでしてくれて、質も量も圧倒的に高く効率化され、こうして毎日のようにアウトプットした結果、
空いた時間とお金が、(仮に)できたとして、で、何をしに行きたいかというと、憧れのプロの大御所イラストレーターの先生に、自分の絵を、何十時間かけてでも、お金を払って描いてもらいたいんです、
みたいな感じですかね(笑)。
あるいは、「業務効率化」ができるからといって、そもそも売れないものを大量生産しても、「効率化」どころか「不効率」の極みを招いた、みたいなシャレにならないことも、私は過去に経験しています(苦笑)。
「圧倒的な効率化」の結果、「絶望的な不効率」を取りに行くという、訳の分からない側面を持っているのが人間だと思うのです。
というか、最大の「効率化」は、そもそも何もしないことです(笑)。
人間の「価値」とは、そもそも「無駄」を創り出すことを「価値」としている側面はあって、
ご丁寧に「無駄」を創っておいて、それを「価値」と言いながら、さらにそれを「効率化」させるのが「価値」なら、
最初から何もしなきゃ良かったじゃん、みたいな(笑)、
言ってみれば、
「どうせ〇ぬのに、何でわざわざ生まれてきて、今日も生きてんだよ。」
という哲学的な探求に行き着くので、今後、特にその答えを自分なりに見つけ出す力は問われるような気がします(苦笑)。
「業務効率化」をあまりに前面に出されて違和感を持っているうちはいいけど、
情報の渦に巻き込まれ、いつの間にか、当たり前の常識になってしまって、
「業務効率化」は全てやっておかないといけない、と盲目的になって、「不効率化」する(笑)のは避けたいので、
だから、私は、あえて「不効率」で「無駄」なことをやって、物事を本質的に捉えようとしているのです、
という、あまりに「無駄」な人生を創っているかもしれないと不安になった時、自分を肯定化するように努力します(苦笑)。
あるいは、
「ねぇねぇ、もっとこうすれば効率化できるのに、何でそんな無駄なことやってるんですか?」
と他人に言われたら、
「えぇ、でも、わざとです。これに価値があるのです。」
とか何とか言って、ホントは無知で無能が恥ずかしいのを、まるで達観して分かってやっているように言い訳できるように必死で考えているところです(苦笑)。