枯れて「なくなる」ことと、枯れて「できる」ようになること
暑いからといって、半パンを履いているのは、どうやらオッサンの象徴らしい(笑)。
小学校6年生まで、母親の訳の分からない方針で、真冬も含めて年中半ズボンを強いられていたので、
半ズボンを履くのは若い証だと、知らぬ間に、無意識に思い込んでいました(笑)。
そうか、オッサンなのか、と思いながら、自分の姿を見ていたら、
半ズボンじゃなくても、見てくれから、顔面から、まだら白髪から、もう何から何まで、醜いオッサンじゃねーか、と、
ここに来て改めて自覚するに至りました(苦笑)。
カッコつけた自分の写真を何枚も取っては、ブログやSNSに出したりと、
私はナルシストの自覚こそしているわけですが(苦笑)、
あげく、特にここ数年は、毎日ライブ動画を自撮りアップしていて、昨日で1230日連続で配信していて、
言ってみれば、毎日、自分の顔面を見ながら、誰も聞いてないようなことを自分で話して、
それを見返しては、自分のことを客観視してるわけですが、
新たな視点が入るだけで、我ながら、よくもまぁこんなこと恥ずかしげもなくやってんな、と自分で思う程、
もう、枯れて、朽ちて、老いていっている醜い自分を見せつけられるわけです(苦笑)。
仕事上、人生のビジョンとか、それに則った、3年後とか5年後とかの具体的な目標や、
さらには叶えるべくの行動計画までを、自分にも他人にも考えるわけですが、
自分の5年後というものを改めて考えるに、
一体、どんだけ、枯れてんねん、朽ちてんねん、老いてんねん、と思うわけで(笑)、じゃあ、どないしたらえぇねんと(苦笑)。
気がつきゃ58歳で、もうすぐ60歳を目の前にしながら、
考えてみたら、30歳とか40歳とかで平気で出来ていたことは、できなくなっていたり、
そんなことより、そもそも意欲そのものが湧かなくなっていたりするのが、最大の「できなくなっている」ことだったりするわけで、
だとしたら、「前の自分と同じ」という気持ちでいること自体が不自然なことと言えます。
歳をとっていくというのは、
①できていたこと、できると思っていたことが、もうできなくなる
②まだ役立つと思っていることが、相手にとっては無価値となっている
③必要とされたい・望まれたいと思っているけど、誰からも必要とされていない・望まれていない
という残酷な現実を、外見からも内面からも、世の中という鏡を通して、真正面から見せつけられていく、
という恐怖と向き合い続けるということとも言えるでしょうね。
私は、これはごく自然で普通で人間らしいと思っていて、
特に無理して抗うつもりはなくて、
このまま、「枯れて・朽ちて・老いていく」ことは受け入れていけば良いと思っています。
自分には「できなくなったこと」を明確に自覚しないと、
いつまでも、「できていたことが、できなくなったのに」、
無理して、「できていると自覚したい」が為の、
執着としての「抗い」というのは、美しいとは思えない。
例えば、「若さ」みたいなものは、取敢えずの見せかけは、何とかなるかも知れませんが、
脳や身体機能というものは、もうどうしようもないわけで、それはそれで受け入れていくという方が、
潔くて美しいと思えてしまいます。
まぁ、それは生き方ですから、好きにすればいいとして、
問題は、社会でまだ活躍したいという意欲を持っている場合の、「自分の市場価値」についてです。
「できなくなったこと」を自覚しないと、
逆に「できるようになったこと」に気づくことができません。
枯れて・朽ちて・老いたが故に、「できていたことが、できなくなった」ことに執着するあまり、
戻らないことを戻そうとして、それはそのまま不自然で、何より不効率といえます。
「できていたことが、できなくなった」「あったものが、なくなった」
ということは、裏を返せば、
「なかったことが、できるようになった」「なかったものが、手に入っていた」
という可能性もあると言えます。
そちらの可能性に目を向けて、「今できること」に着目していく方が、明らかに有効です。
例えば、以前より穏やかになった、とか、器が大きくなった、とか、人の気持ちが分かるようになった、とか、
目の前のものに情熱を感じなくなった分、物事を俯瞰的に見れるようになった、とか、
そういうことです。
実際に、カッコ良く、自然に、素敵に、枯れて・朽ちて・老いていきながら、でもとても美しく、
多くの人から支持される人はいたりします。
よって、半ズボンを履いて、枯れて・朽ちて・老いていき、あったものがどんどんなくなっていくだろう私にも、
きっと、新たに「できる」ようになっていることがあるわけで、
(正確には「あるはず」(苦笑))、
そういう、自分という残酷な鏡から目を背けずに、
美しく、枯れて・朽ちて・老いていきたいと、思うわけです。
新たにできるようになっていることは、必ずあるのですから、そちらで勝負していける、3年後や5年後にしていきたいですね。
そういう抗い方なら、カッコ良くて、美しいと思うわけです。
正確には「あるはず」という理想と期待なだけで、それが何かはまだ知らんですけど(苦笑)。