健全な「今年の抱負や目標」の立て方を姑息な方法で考える(笑)
- カテゴリー:
- 坪井の日常
毎年、「今年はいい年になるよう」にと、それなりに抱負とか目標とか考えるのだろうけど、
経験上、毎年毎年それなりに予期せぬ色んなことが、自分にも環境にも起こるわけで、
それは、例えば、私で言えば、一昨年の1月4日に単なる茶色いゲロかと思ってたら吐血で(笑)、正月早々緊急入院したり、
単なる胃潰瘍だと思ったら、実は胃癌が見つかって、胃を2/3ぶった斬った(苦笑)とかが、
「個人」に起こる予期せぬことで、
「環境」はと言えば、最近で言えばやはりコロナでしょう。
年始に、自分が何を誓おうと、計画しようと、そんなもんはお構いないしに、
意思とか意図とは関係ないところで発生してしまう得体の知れない巨大で抵抗不能な何者かに、
ズッポリと飲み込まれて、グルグルの巻き込まれて、いかんともし難い状況に陥る、
というのが、まぁ、実は、そちらの方が普通と言えば普通で、当たり前のことだと思うわけです。
そんな環境に飲み込まれることを前提にしながら、残る手は3つしかない。
①何が何でも当初立てた目標に到達する為に、いかなる手段も投下して、ストイックにどんな手使ってでも帳尻合わせる。
②実は最初から達成する気などないのだけど、お付き合い程度、あるいは言っといた方が評価上や空気読む上で有効なので、言うことそのものを目的にする。
③結果どうあれ、その過程で全力を費やし、「俺はよくやった。誰よりも努力はしたけどそもそもの才能がなかったのだ。」と、最後は誰からでもなく、自分で自分を慰めて、自分に適正な言い訳ができるまで努力はする。
社会的評価は実績に対してのみですから、それが欲しければ、当然①でしょうが、
成功確率が圧倒的に減って、ストイックの投資対効果が見込めないことに、そこまで多くの人が動機付けされるとは思いにくく、
まぁ、「③を選ぶ」という人が多いような気がするのだけど、
その証明は、その期間が終わってから、スッパリと身を引くことでしかなかったりするから面倒。
結局、人はどっちにも転べるように②を選ぶのが一般的ではないか?と私は予測するわけです。
そんな中で、私が意図いている姑息な方法は、
本音は②から入って、実はたいして本気でもないのだけど、公言してしまった以上、やらざるを得なくなって(笑)、
いかにも挑戦しているかのように①に向かっているように見せておいて(笑)、
結果③で、もう駄目です、諦めました、終わります、とか何とか言って、でも、もしかしたら、その姿を観てくれている人が、次の救いの手を差し伸べてくれるのを狙う(笑)、
という最強パターンを見出そうとするわけですが、
そういう姑息な発想というものは一年間も自分の意志で続くわけもなく(苦笑)、
過去一度も成果を出せたことはありません(笑)。
さて、ならばどうしようか?とさらなる姑息な方法を必死で考えているわけですが、
こうやって考えている間に、今年も終わっていくのではないか?と、我ながら 疑心暗鬼になっていて(笑)、
この方法もそろそろ諦めようかと思いながら、
抱負とか目標とか「どんな年にするのですか?」と、いちいち思考停止状態で聞かれ始める仕事始め頃です(笑)。
何とか、うまいこと誤魔化して、お茶を濁して、今年は今年に飲み込まれながら、飄々と生きて、運よく帳尻合わせられれば本望です(笑)。
せめて、自分だけには正々堂々と言い訳できるようにはしておきたいです(苦笑)。