ツヴォイ式お絵描き063「ビル・ロビンソン」06

ビル・ロビンソンの、対「ジャイアント馬場」戦(1976年7月24日・蔵前国技館)で炸裂させた、

超大型選手へのワンハンド・バックブリーカーを動画にしました(笑)。

前年の12月に「アントニオ猪木」との伝説のフルタイム戦で引き分けた後、決着のつかぬまま、今度はその半年後に全日本プロレスに登場。

(移籍の経緯はプロレスファンなら、もうよく御存知なので割愛(笑)。)

この時は、やや太った感のあるロビンソンのアマレス式のサスペンダータイツ姿に驚きました(笑)。

プロレス雑誌のインタヴューで、ロビンソンが答えていた、

「フロリダの「ダスティ・ローデス」戦の場外戦で肩を痛め長期欠場中に太ってしまって、復帰第一線が当時NWA世界選手権者の「テリー・ファンク」戦だった。」

という記事を読んで、その2戦の方が観たかった、と思った記憶があって(笑)、だから太ったのかと(笑)。

しかし、「ジャンボ鶴田・試練の十番勝負・第4戦」を、真夏の灼熱のリングでこれまた伝説のフルタイム(しかも65分)で終え、いったいどんなスタミナやねんと(笑)。

猪木も引き分け、鶴田も勝てなかったロビンソンに、

そして最後に日本人プロレスラーの切り札の馬場は勝てるのか!?という流れの中での初対決で、

日本人初の2ピンフォールで馬場の勝ちというのは、いかにもプロレス的かつ当時の日本プロレス界政治的な展開で、ロビンソンは、いいように割り食ったなと思いましたが(苦笑)。

その「ジャイアント馬場とのPWF選手権」で魅せたのが、このワンハンド・バックブリーカーでした。

描いていると、猪木戦に比べて、馬場の腰を打ちつける瞬間に、ロビンソンの膝がグシャッとひしゃげていて(苦笑)、

209cm・135kgkの巨体の馬場のダメージもさることながら、ロビンソンの膝への負担も相当なものだったというのが、「ビル・ロビンソン研究家」(笑)としての私の見解です。

後年、ロビンソンは膝を慢性的に痛め、馬場は慢性の腰痛に悩まされていたといいますが、そりゃ、こんな試合を続けていたら、両者共に、そうなるよな、と。

そういう意味でプロレスと言うのは、プロレスという領域に収まりきらない、ビジネスや人生の真剣勝負だと思うわけです。

これで、猪木戦とのワンハンド・バックブリーカーの比較ができるわけで、

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延々と観ていられます(笑)。

私としては、とっても嬉しく、これぞ至福の自己満足です(笑)。

それにしても、1960年後半~1980年代まで、日本の3団体を股にかけ、数多くのレスラーと名勝負を展開・席巻したビル・ロビンソンの実力と実績・功績は、やはり偉大で素晴らしかったのだと改めて思います。

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