論理よりも感情を優先してしまうのが人間である(笑)
自分を鑑みるに、人というのは極めてワガママな存在なのだと思います。
他人はいざ知らず、私はといえば、
一日のうちのほとんどは自分のことしか考えていなくて、他人のことなどどうでもいいという生活を送っています。
でも、ごく稀に、「あぁ、あの人は元気かなぁ。」とか、「そういえば、あの時のあの人は今頃どこで何をしているんだろう?」と、
これまでの人生で出会ってきた数知れないうちの誰か一人のことを、何かの拍子に思い出したりもします。
そういう時に、SNSをはじめとして、スマホやパソコンの検索で、その人のことを探したりして、
出てくれば、一人安心したり、郷愁にこがれたりしながら、個人的な感情にふけては、
せめて、その人の幸せや素敵な人生を、人知れず願ったりもします。
それは、頻度の違いこそあれ、現左進行形でSNSで繋がっている人に対しても同じなわけで、
毎日のように膨大な量の誰かの発信が流れて来る中で、
その全てを本当にキチンとチェックしている他人はいるか?と聞かれれば、
私の場合は、誰一人いない、と言っても過言ではなく、
それが数年に渡って継続となると、もう皆無に等しいでしょう。
要するに、日頃は自分のことだけ考えていて、
自分の都合の良い時だけ、他人を認識したいし、
自分に必要な時だけコミュニケーションを取ったり、
何かを依頼したりしたいだけなのだと思います。
にも関わらず、自分の発信は、いつも誰かに見ていて欲しいと願ったり、期待したり、
あるいは、最悪は、見ていないとは何事だ!?などと思う特定の対象もいたりするのだから、
もう、「わがまま」など通り越して、「クソわがまま」「クソ不遜」、
いや、そんなクソの後に何か適切な単語をつけるまでもなく、
「クソそのもの」
なのではないか?と自分に思うわけです(笑)。
にも関わらず、こうして誰も読まないようなブログを書いたり、
毎日のように、Facebookライブでどうでもいいこと喋ったりするのは、
もしかしたら、誰かが私のように、何かの拍子に、私のことを思い出して、
何かで検索したら、こうして出てきて、
私が誰かを検索した時のような気持ちになるかもしれないよな、
そしたら、もしかした、その人は嬉しかったりするんじゃないかな、
何かに気づいたり、元気づけられたり、何かの希望を持てたりするんじゃないかな?
という淡い期待があるのかも知れません。
そもそも、ビジネスというのは、客という勝手な都合に生きている相手の集団の都合に合わせることにあるわけでしょうから、
相手の勝手な都合に合わせて、いつ、調べても、いつ行っても、いつ連絡しても、
安心してそこにあったり、依頼できる対象であった方が、
いい店・いい会社・いいスタッフ、となるのだろうから、
それと同義で、日頃から、常に情報発信できている人の根幹は、
その人の根幹たる別のアウトプットであるビジネスもまた、
常に、いつ、どこで、どんな都合による依頼にも、応えられるだけのスタンスがあるのだろうと思えるわけで、
そういう人や会社というのは、結局、必要とされるのだろうな、と仮説が立てられるわけですが、
もし、仮に、せっかく、この投稿を、偶然にも見つけてくれた方がいたとしても、
この画像が出た途端に、
「やっぱりこいつはバカだ。2度と関わらないようにしよう。」
とやはり思われる予測も成り立つわけで(笑)、
そうなると、私のような者は、どっからどうあがいても、
ダメなんじゃんね(苦笑)、
と、どうしようもない結論に導かれるのでした(苦笑)。
そういうことが何となく分かっていても、出したいものは出したいという、どうにもならない感情を優先してしまう、愚か極まりない自分を自覚しながら、
何とか努力します(苦笑)。