人の人格はアウトプットで決まる
私は、人が本当の本当は何を考えているか分かりません。
何を考えているかを予測する程度まではできますが、
本当のところが分かるか?となると、私は分かりません。
心の中までは分からないのです。
ある人(Aさん)が私に対して、私が好む言葉と態度ばかりで接してくれたら、
Aさんが、本当は私のことをどう思っていようと、
私は、Aさんは私を好いてくれていると認識すると思います。
逆に、ある人(Bさん)が、心の中でどんなに私に対して愛情を持ってくれていたとしても、
それが、私にとって嫌な言葉や態度であれば、
私は、Bさんのことを気に入らない人として認識するでしょう。
そう考えると、
『人の「人格」というものは、その人のアウトプットによって創られる』
と言えます。
人格とか性格とか人間性いうものは、内面を表す言葉ですから、
「あの人、性格悪いよね。」
という場合、正確な表現としては、
「あの人、私にとって性格が悪いアウトプットするよね。」
となります。
自分がどういう人でありたいか、を考えたとき、
自分の心の中がどうかを自分で考えるより、
一番速くて簡単なのは、そう見える人になるようにアウトプットをすることです。
極端に言うなら、心の中がどうあれ、アウトプットさえ相手に気に入られるようにすれば、気に入られます。
言葉も、態度も、所作の一つ一つも、完璧に、なりたい人の型を自分にはめ切って演技をし続ければ、相手から見たら、なりたい人になれるということです。
ある人が言っていました。
「以前は、人と会ったり関わるのが嫌いで苦手だったのだけど、
これでは売上ができないと思って、自分に無理して、そういう場に行き続けたら、
やっぱり嫌いは嫌いだけど、前よりは嫌じゃなくなりました。」
なんで、そうなれたと思う?と聞いたら、
「慣れなんじゃないですかねぇ。」
とのこと。
私は、結局のところ、これが答えなのではないかと思います。
最初は、違和感があったり苦痛やストレスがあることでも、やり続けているうちに、最初よりは和らいでいきます。
いずれ、意識しなくても、それができる状態になることは、一つ一つを振り返ってみれば、自分にもたくさんあります。
どんなことでも、やり始めたら、少なくとも、最初の頃からはストレスはなくなっていくことでしょう。
では、心で思っていることと、アウトプットすることを完全に乖離させないと、生きていけないか?
すなわち、嘘をついたり、演技をし続けないと生きていくことができないのか?というと、
そうではないと思っています。
例えば、私が、まったくの新規のお客さんとお会いした時に何をやるか言えば、
「初めまして、ツヴォイと申します。この度はご縁を頂けましてありがとうございます。お会いできて光栄に存じます。
本日はどうぞよろしくお願いいたします。」
とかなんとか言いながら、キチンと足を揃えて、まっすぐ立って、腰を45度くらいに曲げて頭を下げて、自分の名刺を相手向きにして、片手でお渡しし、
お相手が名刺を出されたら、両手で受け取らせて頂きます。
これは、基本ビジネスマナーとしての作法や型として学んだことを、そういうものなのかと信じて、ただ愚直に続けているだけで、
本当に相手に対して敬意を持っていたり、心の奥底から光栄に思っている自信があるか?と言われたら、
決してそうではありません。
アウトプットである所作や型に対しても、本音かどうかもとても違和感がありながら、
やり続けているわけです。
間違っても、わざわざ、
「とは口でし言いつつも、教えられたことを儀礼的にやっているだけで、本音を言えば、あなたに心から敬意を持ったり、会えて光栄でと本気で思っているか?と言えば、そんな確信があるとは言えないんですけどね。」
などとは言いません。
仮に、相手の無礼な態度に出くわすようなことがあって思ったとしても、言いませんでした。
でも、やり続けているうちに、そんなことすらいちいち考えることもなく、動きもスムーズで、ごく自然体で、おそらく顔つきも意識することなく自然な笑顔になって、
所作も心も、そんなことすら考えることもなく、ほとんど無意識にできるようになっています。
(なっていない時もあるかも知れませんが(笑)。)
この無意識の状態になることが「慣れ」ということだと思うのです。
最初は、体を使う違和感やストレスや面倒臭さがあって、
かつ、こんなことは本当に私の心なのか?自分に嘘をついてまでやるべきことなのか?
とか思ったことはあったかも知れませんが、
今は、意識も違和感もストレスも何もなく、ごく自然に普通にやっている自分がいます。
そういう私を見た誰かが、ツヴォイさんって、意外とちゃんとしたなんですね、という印象を持ったとしたら、
私が意識しなくても、いつもはいい加減だけど、ちゃんとする時はちゃんとできる人なんですねぇ、みたいな印象になる。
相手からしたら、私はちゃんとしている人になる。
本当はズボラでいい加減でアホ丸出しで、決してちゃんとしていないのに、ちゃんとした人になる。
アウトプットが、勝手にその人の人格を決めてしまう、というのはそういうことです。
本当のその人のことなど、実は誰にも分らないのです。
人と会ったり、人とコミュニケーションを取ったり、人間関係が構築されていったり、誰かにとってのかけがえのない一人になったり、
相手は、機械でもなく、名刺でもなく、日々移ろいゆく感情というものを持った人間という存在なだけに、
より複雑になることはあると思いますが、
結局のところ、「慣れ」であるということであれば、
これは解決できる可能性はあると思うのです。
その為の方法は、
①アウトプットを変える
②多くの人と出会う
の双方向がありますが、今日は、まぁ、ここまで。
大事なのは、やれ性格の問題だ、人間性だの、
そういう理由で、片づけてしまわないだけの努力の余地はあるというこでしょうね。
新たな人と会うことは、基本ストレスです。
関係を続けていくうちに傷ついたり、悲しい思いもします。
でも、ビジネスの現場は、特に売上については、目標に対する一定数の人数が必要で、これが現実です。
目標である一定数になるまでは、やらざるを得ないこともたくさんたくさん出てきます。
目標金額を取って、面倒臭い一定のストレスに向かうか、
面倒臭いストレス回避を取って、金額を落とすか、
大きくはこの二つの方向性でしょう。
それは自分が好きな方を選べばいいと思います。
無理なのは、どっちも欲しいということですね。
誰もが好きなように生きたいと思っていると思いますが、
好きな方を取るということは、別の何かを手放すということです。
前に進みたいなら、
右足を先に出すのか、左足を先に出すのかくらいは、自分で選択してもいいと思うのです。
誰もが好きに生き、好きな人格を持った人になられることを願っています。