長年かけて理解した私のゴミ加減(苦笑)
大学生の頃、JR線に乗ってたら、
一人のオジサンが落ちていたとおぼしき、中吊り広告の一枚を持ちながら座席に座りながら、
友人とおぼしきもう一人のオジサンに、
「こんなゴミを撒き散らして・・・、こういうのが資源の無駄使い。大体今の日本は・・・・」
と印刷物をパシパシ叩きながら、今の時代の評論をし始めていて、
それを見ていた私は、
何が資源の有効で、何をもってして資源の無駄使いというのか、
その境目はどこにあるのだろう?と考えるに至って、
例えば、企業の宣伝広告に紙やインクを使うことそこものは無駄使いになるのかならないのか?
印刷物を余裕をもって生産することが無駄使いなのか?
乗っている電車は、鉄をはじめとして人間の便利さの為に地球資源を使っているわけで、
それを無駄使いというのなら、
オジサンは無駄使いの享受を受けているわけで、
自分がやっていることは良くて、他人がやっていて自分はやっていないことは無駄使いということなのか?
だとしたら、その根拠はどこにあるのか?
そもそも、そういう生産性のない評論をしている当のオジサンは、
地球の資源を食べながら今日も生きているわけで、
生産性のない自分は生きながらえようとしながら、落ちているゴミの評論をしていること自体、
そのオジサンの存在が無駄に見えてきて(笑)、
まるで、そのオジサンがゴミそのものに見えてきて(笑)、
どんなに歳をとってもこんな滑稽でゴミのようはオジサンにはなりたくないなぁ、
などということを、生意気に思いながら(苦笑)、
そのオジサンに「無駄使い」の定義や範囲や視座を聞きたくて聞きたくて仕方なくなって(笑)、
でも勇気がなくて、そんなことを聞けなくて(苦笑)、
あれから35年以上経った今、
フとそのことを思い出しながら、あのオジサンは当然もう死んだのかなぁ?
無駄でもゴミでもなく社会に役立って生きたのかなぁ?
それとも無駄なゴミよろしく、自分以外の誰かを批評しながら、死んでいくような人生だったのかなぁ?
と、思いながら、カッコつけて、写真を撮ってもらっていたら、
カッコつけるのをヨソに、隣に写っているのは、
まるで、
「君がこの中に入っていなさい。」
と言わんばかりの大型のゴミ箱だった(笑)。
オジサン、あれから35年経って、長年の謎が解けました。
オジサンがゴミなんじゃなくて、この私こそがゴミそのものでした(苦笑)。
お陰様で、自分は正しいという前提は消し去るだけの思慮あるオジサンになりました(苦笑)。