「成果」と「手放す自分」の答え合わせ

もし成果を上げたいなら、すでに上げたい成果を出している人から、成果を出すに至る「型」を学ぶのが一番早い。

それを「型」というのか「定石」というのか「原型」というのか、それは好きな言葉を使うとして、

大事なのは、そこには「型」たる『「理論」と「事例」』が必ず存在する。

 

まずはそのまま「実践」することで、確実に「事例」が手に入る。

具体的な「事例」が入ると、「言葉の意味合い」が最初とは違ってくる。

「言葉の意味合い」が変わってくると、最初の「型」の意味が自分の中で違ってくる。

だからまたその「型」に則って「実践」してみる。

この反復繰り返しが最も重要で効率的な努力の方法です。

 

考えてみれば当然である。

成果を出している人というのは、勉強にせよ、スポーツにせよ、

幼い頃から、それをやる意味などよく分からずに、自分の意思や感情など反故にして、強制と理不尽をただただ受け入れて、やることだけをやり続けてきた人である。

それがいい人生だっかどうかは別として、成果を出す人というのは、自分の感情がどうあれ、成果を出す「型」に対して、ただただ行動してきた人が成果を出している。

そこに自分の考えだの「自分らしく」だの関係ないのである。

 

ただ、他人の「型」にはまり切って「行動」「実践」を、人よりも繰り返してきた人だけが、成果や目標をつかみ取る権利を得る。

それでもなお、権利が手に入っただけで、成果を出せるか?というとその保証はないわけで、そういう世界でただひたすらに戦っている人の数パーセントだけが実際には成果を手にする。

 

そこに自分の意思や感情があるか?というと、恐らくはほとんどが後付けなのだろうと思う。

二歳の頃からずっと水泳をやり続けている子供に、水泳をやり続ける意味や、その後に襲い掛かる他の煩悩に打ち勝つだけの意思や感情があるか?というと、恐らくそうではなく、

成果を出した後にその意味や意思を口に出すのではないか?と思うわけです。

 

思うに、学校の授業を受ける時の姿勢や、朝「おはようございます」という礼やマナーや、靴を揃えるなどという躾ということそのものに対し、

「なぜ?」「どんな意味があるのか?」と問いだしたところで、客観的な証明たる何かを前提に答えられる人は誰一人いないのではないか?

しかし、私が合点がいくとしたら、それら全ては、ほとんどの人が来るべき成果を出すための「型」を身に着ける、その前の訓練をしているのではないか?ということである。

 

月日が経ち、社会に出る多くの人が、自分の所得金額を上げようとしたり、業績を上げようとしたりして、

本を読んだり、セミナーを受けたり、誰かに付いて、その方法や考え方を学ぼうとする。

 

しかし、それだけで任意の目標や成果が手に入るのであれば、すでにほとんどの人が目標や成果を達成しているはずである。

でもできない人がほとんどである。

 

当初は「理解」ができていないからだと思っていたが、この「理解」というのがかなりややこしい。

「理解」というのは、あくまで本人の中で自覚するが故、どこまでいっても、本人が「理解した」と言えば理解したとなるし、「理解」していないと言えば理解していないということになる。

 

だとすると、何で証明されるのか?というと、実際に目に見えた「行動」によってのみしか他人は認識ができない。

これが「アウトプットこそがその人を形成している」という私の論法の正体である。

 

それは、出す言葉、書く文字、出る顔つき、生活スタイル、起きている時間の使い方、行動の一つ一つを通して、残酷なまでに目の前に現れる。

成果を出せない人は、成果を出さないべくして、成果の出ない行動を日々「無意識」に邁進しているのである。

そして言う、

「私は成果が欲しい。どうして成果がでないんだ。こんなに本気で思っているのに。こんなに真剣なのに。どうして成果がでないんだ。」

と。

それを愚痴り、悩み、人に委ね、酒を飲み、気分転換をしに遊びに行き、成果を出さない日々を繰り返す。

その時間を成果を出す人は、成果を出すべく行動を愚直に行っている。

だから、また差がつく。

 

「無意識」だから怖い。意識的ならまだ意識の範疇で直せるにしても、「無意識」は「無の意識」なのだから、自分では制御のしようがない。

だから他人に委ねる。

委ねたところで、またやらない。

 

やれ、睡眠時間が、飲み会が、友達が、葬式が、結婚式が、仕事が、観たいテレビが、勘違いだ、教え方が悪い、誰かがあぁ言ったこう言った、子供の時間が、家族の時間が、嫁さんがどうした、旦那がどうした、やれ恋人が、デートが、喰いたいものが、欲しいものが、ストレス解消だ、

なんでもいい、なんでもいいけど、とにかく、やらない。形にしない。目に見えたものにできない。

やったとしても、自分のやり方で、やっぱりやる。

 

あげくの果てには、

「そのやり方は私らしくない。だから私は私らしく。」

の最強の決め台詞砲発射で全てを破壊する。

 

それは悪いことではない。誰もが、自分の想い通りに、自分らしく生きればいい。

しかし、それなら過分な成果は諦めるべきである。

「私が私らしくいる」ということは、誰の言うことも聞かずに、成果を出すということである。

あとは、天才であることを願うばかりです。

 

さて、ここまで偉そうに書いておいて何だが、これは何を隠そう私自身のことです。

私は前記した意味で、サボり続けてきた人生です。

 

誰かに何かを言われるのが嫌だし、強制されるのはもってのほか、制御も嫌い、自分の考えを自分で尊重していたいし、

何か言われても「でも」「だって」が得意技だし、認めていない相手から何か言われたら「何であんたにそんなこと言われにゃいかんのかね?」となる。

何かというと意味を問い、自分の基準で納得するまで動きもしない。

 

ここまで分かっているなら、誰か成果を出している人に付いて一からやり直せばいいものの、それも嫌、無理したくない。教えられたくない。

 

そういう自分がいるわけです。

だから、55歳にして、まともな実績もないし、よって今の実力もない。

だから成果など出せようがないのです。

そもそも、既に手遅れもいいとこです。

 

あとは、じゃあどうするかだけ。

それだけです。

 

「私はクソです。」

その自覚からスタートせねば、私のようなクソ凡人は、何も始まらないわけです。

 

無理が嫌なら、成果は手放す。

ストレスが嫌なら、成果は諦める。

不安が嫌なら、進むのを辞める。

傷つきたくないんら、何もしない。

 

成果が欲しいなら、無理してでもやる。

成果が欲しいなら、それ以外は捨てる。

成果が欲しいなら、成果を手に入れている人の型通り、つべこべいわずにやる。

 

最初に決めるのは、シンプルに二択からです。

 

あとは、やりながら、進みながら考えて、やってみてどうしても嫌なら、また最初に戻って考え直せばいいのだと思うのです。

 

『「廃業」から10年で「上場」』

これが私の唯一のキャッチです。

というか、その程度です。

「だから何なんだ。」と言われたらそれまで。なんの価値もありません。だからその程度なのです。

 

裏を返せば、どんなクソ凡人でも、やり方次第ではそこまでは行ける可能性はあるということにもあるのでしょうね。

 

果たして、私には、そうなるべく「型」はあるのか?

偶然のたまたまだったのか?

証明しきれない自分との答え合わせはまだ続きそうで、それはそれで楽しみな課題でもあります。

自分で自分を証明しておきたい。
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