「知らない」を「知る」ことが成長なのかもしれません
知らないことや、知らない感情は、まだまだたくさんあるんだな、と思います。
そう思えるに至る出来事が、今年に入ってから、ここ最近いくつかあって、
少々の痛い思いをしたり、恥ずかしい思いをしないと、こういう気持ちになれないということは、
いかに不遜な自分がいて、まだいるということなのだと思います。
正直いうと、54年の人生で、色々とやってきた自負というのは、少なからずあったのですが、
でも、ちょっと考えれば、たかが54年の自分の小さな経験とキャパなんてのは、どれだけ些細なものであるのかなんてのは分かるようなもんで、
それを、独りよがりの「自分はやってきた、分かる、知っている」などという自負なんてのは不遜極まりないわけで、
こういう時に、そういう自分に気づいたり、恥じたり、反省したりします。
逆に、まだ「新鮮な戸惑い」を覚えたり、まだ見てない「未見の自分」がいることに、
まだ、学ぶことは、まだまだたくさんたくさんあって、その度に大切なことを発見できるじゃないか、というある種の希望にも似た気持ちを覚えたりもします。
そう考えると、さらに「そもそも」の話になってくるのでしょうが、
どう考えても、私は私の人生の中からでしか物事を語れないわけで、
よく言う、
「私は私以外にはなれず、誰も私にはなれない」
という類の言葉は、そういうことなのだろうなと思います。
裏を返せば、誰もが、その人にしかない、体験・経験とそこから育まれる感情や価値観があり、
その人にしかないオリジナルの人生を創っているわけで、
私以外の人には、私にはない尊い価値があるとも言えます。
私は、人は「自分とは違う」ことが当たり前だと思ってはいますが、
それでも、その「違い」に違和感を覚えたり、不快感をもよおしたり、時に気に入らないという感情を抱くこともあるというジレンマも持ち合わせています。
年齢を重ねるのと比例して、凝り固まる「自分」というのはあるのでしょうが、
年齢を重ねるのと比例して、全ての他人から学ばせて頂くという姿勢を持つことこそが、
もしかしたら、年齢と共に閉塞感を感じる「成長」への唯一の対策なのかも知れません。
とても勇気のいることなのかも知れませんが、それが楽しくて面白い人生を創るヒントになるような気がしている昨今です。
「知る」ということは、「知らない」ことを自覚することと言えるのかもしれませんね。