そもそも楽しくないから楽しくしようと意図してるだけ(苦笑)
名古屋は雨です。このところ雨の日が多いです。
傘屋の息子だからか(笑)、雨が大して嫌なわけではありませんが、
ただ、雨の日に限って徒歩で近くの区役所や銀行まで歩かなきゃいけない日だったりして、
そういう時は雨が本降りだとやっぱり面倒くさい気分になるわけで(苦笑)、
でも、せっかく雨の中トボトボ歩かなくちゃいけないんだから、
雨の日用にと以前に自分に言い訳して買った(笑)、米軍仕様ゴアテックスパーカーと、アメリカ製のラバーブーツ(要するにゴム長靴(笑))が着用できるから、ま、いっか、となります。
こういう話をすると、展開上、「いつもポジティブに前向きに生きよう〜」とかいう話になるのかもしれませんが、
私の場合の本音というか根幹は全く逆で(苦笑)、
本当に「いつもポジティブに前向きに」できる人なら、わざわざいちいち「いつもポジティブに前向きに」と意図したり意識して生きる必要などないわけで(苦笑)、
私なんて、「生きていることそのものが面倒くさいと思ってるんじゃないか?」と自覚せざるを得ないほど、面倒くさがり屋でグダグダで(苦笑)、
どれくらいかというと、一日の起きてから寝るに至るまで、全てが面倒くさいと言い切れるほどで(苦笑)、
(一年に一回くらい、起きて動き出す準備するどころか、目を開けたり、息をするのですら面倒くさいと思う時がある(笑)。
まして、仕事にせよ、遊びにせよ、それそのものがどんなに楽しみでも、着替えたり、そこに行くという行為までが既に面倒くさいというのは、もはや普通であり日常である(苦笑)。)、
よって、1つ1つの所作において、面倒くささを越えるだけの楽しみを、いちいち本気で真剣に考えておかないと、
生きていけないということになるわけで(苦笑)、
(一生引きこもったり、無人島で暮らすことを選択する勇気もない(苦笑)。無論、死を自ら選択する勇気など毛頭ない。要するに都合良く適当に生きていたいだけと言える(苦笑)。)
だから、もう命懸けとも言えるほどに、一つ一つがちょっとでも楽しくなるように、あれやこれや無理矢理にでも考えないと、
一応生きているのに、生きることそのものが面倒くさくて、じゃあ死ぬのかというと自分の意思では死ねないわけで、
同じ生きなきゃいけないなら、こうして強引に無理矢理にでも楽しみを見つけては、あぁ今日も楽しい幸せだと自分の脳を覚醒させては、
今日も今日とて、性懲りも無く何とか生きていると言えるわけで(苦笑)、
生きていることそのものが努力せにゃいかんと言えるほどに、根がナーバスで後ろ向きで面倒くさがり屋だと言えます(苦笑)。
時々、「いつも楽しそうですね。」「ツヴォイさんはいつも前向きですね。」とか、そういう肯定的なことを言って頂けることはあって、
それはそれで一つの評価であり、とても光栄でもあるのですが、
当の本人は全く逆なわけで、いつも楽しくなることを見つけていたり、少しでも前向きになれるよう、いちいち努力をしてないと、
人生が楽しくなれないから、そうしてるだけで、それをはたから見たら、そう見えるだけなんだろうな、と思ったりするわけです(笑)。
だから、腹が立つ時に腹を立てたり、ツライ時にツラくできたり、嫌なことがあると嫌そうにできたりする人というのは、
逆に言うなら、楽しいことが無条件に楽しかったり、何もせずとも思い通りになっていたり、都合の良いことが都合良くあったりするようなことが、日常の中にあるとも言えるわけで、
逆説的に言うなら、それはそれで羨ましいよなぁ、と思えることもあったりしたりしますね。
そんなことを考えながら、私は、雨の日だからナーバスになるのではなくて、
毎日がナーバスなのだから、雨の日だけ楽しくなるように努力しているのではなくて、
晴れの日も、雨の日も、ただ生きているだけなんだから、いちいち特別なことを言わなくていいのに、
ここぞとばかりにネタにしているということは、雨に感謝しなきゃいかんだな、と思いつつも、
でも、やっぱり面倒くせぇや、と本音では思うのでした(苦笑)。
そもそも、こうしてブログを書くこと自体が面倒くさいことをいちいちやっているわけで(苦笑)、
要は、「面倒くさいからやらない」のか、「面倒くさくてもやる」のか、
まぁ、そんだけのことと結局はそこに集約できるんだろうな、ということなんでしょうね(笑)。