主観では楽しいのに、客観するとアホにしか見えない動画(笑)

滝1

野外に出て、まだ見たこともない大自然に感動して、ひとしきり満喫した後に、

不意に、こういうことを考えたり、実際にやってみたり、イメージ通りになるかどうか何度も何度も実験してみたり、それを一人で動画にしてみたり・・・・・、

そういうことが無条件にしたくなってしたくなって(笑)、全てを犠牲にしてまでしたくなって(笑)、

実際にやっているそういう時は、死ぬほど「楽しい」と思えるんだけど、

自分では「おぉ、すげー!」と思える程の会心の一撃ができあがって、そこまではいいんだけど、

改めて自分で自分を見てみると・・・・・・・、

 

自分が、死ぬほど「滑稽」で「アホ」に思えます(苦笑)。

あげく、別の拡大画像で動画を作ってみたくなって、実際にやってみると・・・・・、

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滝2

それはもう楽しくて楽しくて、このまま死んでもいいと思えるくらい楽しいと思えるんだけど(笑)、

できたはいいけど、改めて、自分で自分を見てみると、もう救いようもなく「滑稽」で「バカ」で「アホ」に見えてしかたなく(苦笑)、

自分でやっているに関わらず、「こいつ、なんでこんなことできるんだろう??」とすら思うことがあります(笑)。

誰もが、自分にとって「楽しい」毎日で、「楽しい」人生でいたいと願い生きていると思います。

誰かを「楽しませたい」、誰かに「楽しんでもらいたい」、その為にやっている、という人もいますが、

その想いや願いはとても大切として、

「楽しさ」というのは、煎じ詰めれば個人の価値観に帰属していますから、

自分が実際に体験・経験した「楽しさ」の範疇でしか、相手に差し出すなどということはできません。

よって、どんなに他人を楽しませようなどと意図したところで、結局は自分の「楽しさ」という範囲の中に、相手を閉じ込めようとする、という謙虚さは必須でとも言えます。

世の中を「幸せ」にしたい、誰もに「楽しさ」を提供したいというのは、とても大切で立派な思考である反面、

実は究極のエゴイズムであるという迷宮を認識しない限りは、謙虚になれないと私は思っています。

それがなんとなく分かった上で、自分が勝手に「楽しい」と思えることを、惜しげもなく出すのは間違いではない・・・・・、

と言うか、それしか「楽しさ」の提供などはできないのだから、誰もがどんどん「自分の楽しい」を出せば良いし、表現すればいい、SNSでも発信しまくるのは素晴らしいでしょう。

時にそれは共感され、喜びや楽しさを与え、時に批判され、時に知らぬ間に誰かを傷つけ、誰かを不快にさせ、そして、どんなに楽しいと思われていても飽きられ・・・・・、

そうしながら、様々な「楽しさ」は、それぞれの「楽しさ」の運命を巡っていくのだと思っています。

よって、私は自分の「楽しさ」に歯止めをかけることなく、追求し続けたいとは思っていますが、

自分が楽しければ楽しい程、研ぎ澄まされれば研ぎ澄まされる程、正比例して、他人から見たら、「滑稽」で「アホ」で「バカ」にしか見えないのだろうという表裏一体は認識しておくべきだろうな、と思うのです。

ここは個人的には押さえておきたいところですね。

往々にして、楽しそうに生きているなぁ、と思える他人は、私から見ると同時に恐ろしく滑稽でアホにも思えるというのが本音と言えば本音です(苦笑)。

ただ、スゲーな、と思える人は、そんなこと考えもせず、ただただ自分の思想や楽しさを追求し続けて生きている人ですね。

そういう人は、他人からどんな評価されようと、批判されようと、何言われようと、傷ついたりなんかはしない。

そして、もっと大切なのは、自分の生活くらいは自分で何とかするという、分かり易く言うと資本主義社会の中での「お金」に対する手段をちゃんと持っている。

だから、他人に対していらぬ迎合などせずに、ただひたすらに自分の人生を生きている。

そういう人、あるいはそう見える人は、本当にスゲーと思えるし、最後の最後はそうありたいよなぁ、という願望は持っています・・・・・。

私は、いつも楽しくいたいとは思ってはいますが、まだそこまではとても達観などできていないし、他人からの評価など気にしなくていいというほどお金も資産もありませんから(苦笑)、理想と現実との狭間でもがいているということでしょう(苦笑)。

アホ動画ができあがるまでの、自分の主観の「楽しさ」と、

動画ができあがって自らを客観視した時の「滑稽」さの両方を体感しながら、そんなことを思ふのでした(苦笑)。

それにしても、死ぬほど楽しい(笑)。

これは楽しいよ(笑)。
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