仕事における「モチベーション」の正体とは何か?②
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こういうことやる時だけは、我ながら異常とも思えるほどにモチベーションが上がります(苦笑)。
さて、『仕事における「モチベーション」の正体とは何か?」シリーズの第2回目です。
第1回はコチラ
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最も多い経営相談「モチベーション」に対して、私の事例はヒントと成り得るか?
この5年間、最もご相談が多かったのが、
「社員・スタッフの仕事のやる気をどうしたらあげられるのか?」
「仕事をもっと楽しむにはどうしたらいいのか?」
「社員・スタッフを元気にして欲しい」
といった、大きく言えは、
「人のモチベーションをいかに上げるか」
というものでした。
とても大切で最重要と私も思いますが、結論から言うと、私もそんなもん知りません(笑)。
知りませんが、もしかしたら、私は何かしらモチベーションが高い人に見える、あるいはそう思われているのかも知れません(笑)。
ツヴォイは「モチベーション」が高い人間なのか?
ただ、私はモチベーションが高い人間では決してないと自覚しています。
子供の頃は、「子供は、勉強するのが当たり前だし、しなきゃいけないのだから、勉強しろ。」
社会に出たら、「生きる為に仕事するのが当たり前なのだから、仕事しろ。」
と、物心ついた時から、
「◯◯という立場は、◇◇しろ。」
という、そんなもん誰がいつ決めたんだよ、というような刷り込みめいたことを一方的に言われてきて、
そりゃまぁ確かにそうなんだろうし、そうなわけで、それは分かってはいるものの、
じゃあ、それに対して、自らモチベーションが上がるか?と言えば、何らモチベーションなど上がらずに、本当に一つ一つが嫌で嫌で苦しかったという記憶があります。
というか、そういう記憶しか残っていない(苦笑)。
私は、そもそも、グウタラでグダグダで、モチベーションなどというものは皆無だったと自覚しています(笑)。
(だった、というか、今でもそうだけど(苦笑)。)
正確に言えば、やりたいことや興味があることはスンゴイやって、やりたくないことはとんと興味の「きょ」の字もない(苦笑)、
すなわち、モチベーションがそもそも高い対象には高いし、
そもそも低い対象にはどうあがいても低いというだけの人間であって、
その「そもそも」が何故なのか?を論理では解明できていません。
ウルトラマンが好きだったから好き、算数の勉強は嫌いだから嫌い、というだけのことです(笑)。
そもそも「モチベーション」があるということに論理はあるのか?
例えば、大人が読むようなプロレスの本は穴のあくほどに読みまくるし、マンガの本は何度も読み返して暗記はするけど、学校の勉強に関する本は一切読まない。
図画工作の時間は集中するし家に帰っても勝手にやってるけど、国語・算数・理科・社会は大嫌いで教科書を開くのすらイヤ。
そういう感じです。
(結局、今でも変わってねーじゃねーか(笑)。)
もっと言うなら、モチベーションが上がることの方が圧倒的に少なくて、モチベーションなどある・ないどころか、生きていて面倒なことの方がほとんどと言っても過言ではないような気がします。
例えば、レザージャケットを買おうとお店に行くとして、レザージャケットの試着そのものにはモチベーションは上がりまくるけど、
でも、起きて、準備して、そのお店に行くという行為がもう面倒くさい(笑)。
久しぶりにパリには行きたい。もう一度ロサンゼルスには行きたい。一度はニューヨークは行っておきたい。ハワイで脳天気な時間を漫喫したい。
でも、行く準備とか、時間とか、いろいろ調べたりとか、そういう一つ一つを考え出すと、その時点でもう面倒くさい(笑)。
お絵描きやラクガキするのは昔も今も大好き。でも、ペンの準備や、水差しを準備したり、何ならペンのキャップ開け閉めするのがもう面倒くさい(苦笑)。
何なら、あげくの果てには、どうせ死ぬのに、今日も生きるということそのものが面倒くさい(苦笑)、
朝起きて息を吸うのすらもう面倒くさい(苦笑)、とすら思える日も年に1~2回は平気であったりします(苦笑)。
もともと、そういう感じの人間なのです(苦笑)。
そういう私を日常的に見ている親や、学校の先生や、職場の人は、それがとても極端に見えて、つかみ所がないと言うか、捉えどころが見えないので、とても心配したり、憤慨したりするのだと思うし、
それをスゴイという人もいれば、アホ過ぎて相手にもならないと評価する場合もあって、
それは確かに他人から見たらそう見えるのも分からなくもなかったりします(笑)。
後天的にモチベーションは発生するものなのか?
逆に、モチベーションなど全く上がらないことだったのだけど、行ってみたら、やってみたら、会ってみたら、
予想外に楽しくて面白くて感動するようなこともあって、新しい自分に気づいたり、新しい幸せとか喜びを実感したりして、一気にモチベーションが上がるというようなこともあるわけです。
言葉にすると何となくご立派な感じになってしまいますが、ここで言いたいのは、そうじゃなくて、
例えば、小学校の時に、
「学校は、勉強する場所だったから行くのがイヤだった。」
↓
「好きな子ができたら学校に行くのが楽しくなった。授業が楽しくなった。」
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「好きな子が授業中に手を挙げて発言した。」
↓
「その姿にちょっとショックを受けた。遊んでるだけじゃカッコ悪い奴に思えて、自分もせめてそれくらいはできないといけないと思った。好きな子と対等でいたいとか、認められたいとか思った。」
↓
「相手にしてもらいたいので勉強しだした。」
↓
「ちょっと成績が上がり始めた。」
↓
「周りの見る目が変わりはじめたり、先生から褒められたり、親が嬉しそうにした。それはそれで嬉しかった。」
↓
「もっとそういう感情を味わいたいようになった。」
↓
「前より勉強がちょっと好きになった。」
みたいな、そういう感じです(笑)。
って言うか、これ、私の実話です(笑)。
モチベーションというのは、その程度と言えばその程度だと思うのです。
「それそのもの」ではなくて、「それ以外の別の何か」が作用して、組合わさって、結果として「それそのもの」のモチベーションは発生するのだと思うわけです。
(ちなみに、この概念は、この時代の消費行動においてとても重要な考え方だとも思っています。)
こういう経験をしてきた私のような者が、仕事に対して、人生全般に対して、果たしてモチベーションが高い人と言えるのか?というと、決してそうではないわけです。
しかしながら、何でもかんでも「やらねばならない」ことだらけなわけで、それに対してどう対処するかとなると、
私の結論は、モチベーションが上がらないことに対して、モチベーションが高いことを組み合わせて、
やりたくないことはやりたくないこととして、せめて楽しくなるように努力するということになる。
これが本稿の結論と言えば結論になります。
ただ、こういうことを言うと、「それではダメだ。何に対してでも、もっと前向きな思考と生き方をしなさい。」と言われそうだし、実際何度も言われてきて、
「そうですね。」と、面倒だから(笑)一旦は理解してその場を退散するくらいはするものの(苦笑)、
何を言われようと、叱咤されようと、結局のところ嫌なものはイヤだし、面倒なものは面倒なわけだから、
「モチベーションを上げる」というのは私としては、組み合わせるしかないわけです。
そもそも「お前、もっとモチベーションをあげろ!」と言って、人のモチベーションが上がるなら世話ありません(笑)。
むしろ、そんなこと言われたら、モチベーション下がるだろ?(笑)と思う訳です。
なのに、人は人に「モチベーションが大事だ、モチベーションを上げましょう。」とだけ言う(笑)。
できんのかよ、そんなこと、となるわけですね(笑)。
続く・・・・・・・・。