どうせ分からないなら都合の良い方(笑)
自分の意思で、自分の思う通りに、自分が逢いたい人に、逢いに行ける今があるというのは、とっても幸せなことですね。
ただ、こちらの都合で、こちらの勝手で逢いに行くわけだから、そりゃこちらとしては幸せで嬉しいわけだけど、
相手にとって、こちらが逢いたいと思われるだけの存在かどうかは、分かりませんね(笑)。
相手が何を考えているのかは、どこまでいっても結局のところ分かりません。
よって、不安になったりして、確認したくなったりする場合はあるのでしょう。
でも、どんなに確認したところで、結局のところ、人のことは分からない(苦笑)。
分からないのだから、どーせ分からないのであれば、
人生時間のうち、不安を募らせたり、心配する時間を増やしたいのか、
脳天気に楽しい時間を送る時間を増やしたいのか、どっちでいたいのか?
という単純な選択になるわけで(笑)、
私は、当然、一生脳天気でいたいわけだから、後者になる(笑)。
というわけで、私の場合は、相手がどれだけ自分のことを想っていてくれるかは、
「自分と同じくらい大好きで逢いたいと思ってくれている。」
と脳天気に想定します(笑)。
自分が大好きな相手は、きっと自分と同じくらい相手も大好きでいてくれると信じ込むということですね(笑)。
他人の気持ちを察するなどという高尚な示唆に対しては、私はその程度がやっとです(笑)。
相手のことも分からなければ、じゃあ、自分のことが分かっているのか?といえば、自分のことの方がよっぽど分かっていない。
仮に、今、分かっていると思っている自分は、明日また何かの影響で価値観が変わるなんてことことはいくらでもありそうなわけで、
そうなると、本当の自分とは何者なのか?などと考えること自体、どーでもえぇことに思えてもくるわけですね(笑)。
だから、相手が自分をどう思っているのか?なんてのは、気にはなるけど、問うだけ無駄だし、相手にとっても迷惑だろうし、結局は分かんねーんだから、
せいぜい「自分と同じくらい」と想定しておく、程度にしておくと都合が良いと思うのですね(笑)。
よって、オードリー・ヘップバーンも、私に逢いたくて逢いたくてしかなくて、
私に逢えて、とっても嬉しかったんだろうな、と思うのです(笑)。
だから、人目もはばからず遠近法もできるってもんです(苦笑)。
そこかい、結局そこかい。
その程度です(苦笑)。