同じ「頑張る」でも全然違うんだよな(笑)
例年よりも、早くやって来て、早く去って行きそうな、ライトアップされた真っ赤な紅葉に遭遇できて、
真っ赤な紅葉に包まれてるような画像が撮りたくて、
無理して枝の間から顔を出したり、背伸びしたり、無理目の格好で、クソ寒い中で自撮りしてたら、
「インスタ映え」するとか何とか言いながら、同じ場所で撮ってた女子高生から、その姿をキャッキャッと声を出して笑われました(苦笑)。
明らかに単なる変なオッサンです(苦笑)。
無理して、何とか魅せようとして背伸びして頑張ったところでダメですね。
どんなに取り繕って良く魅せようとしても、はたから見てる方からは無理がバレバレで、せいぜいモロに笑われてるだけです(苦笑)。
ブログやSNSも含め、他人の発言や行動を見ながら私が感じることの一つとして、
「身の丈」を感じられる人が、私は一番安心して見ていられるし、信用できるし、心地良いということに気づかされます。
無理のない、奇をてらわない、いつも通りの普通のその人らしさが感じられる人を好んでしまいます。
ただ、誰もが口ではそうは言えるものの、それが一番難しいとも思っています。
私も含め、ほとんどの人は、人からどう見られたいか、認められたいかによる発言や行動へとシフトする傾向は強いのだと思っています。
誰もが認めるスゴイ実績をもった人が、どんなアホなこと言ってたとしても、何か含みがありそうに思えたり、人間らしさを感じたりして、余計に評価が高まったりするけど、
逆に、大した実績もなくアホとしか見られていない奴が、何事も分かったような偉そうなこと言えば、それは滑稽としか見られていません(苦笑)。
ただ、アホな奴がアホなことをやってればいいのか?となると、それは「身の丈」ではあるけれど、やっぱりアホな奴はアホだ、となって(笑)、誰からも相手にされず、身も蓋もありません。
ある尊敬する方のお話の中の何かの一節で、
「実績もない奴が、偉そうに分かったようなこと語る資格はない。」
みたいなこと言って、痛く心に残っています。
私は「頑張る」というのは日常的に必要な心持ちだと思っていて、
私なんて、いちいち頑張ってないと、生きていけない程の、グダグダ前提の人間だと自覚しているものだから(苦笑)、
それが、何かの目的や目標があって、結果として実績を得るなんて時にゃあ、そりゃもう全力で必死で頑張らないと絶対に無理なわけです(苦笑)。
だから、頑張っているかといえば、普通に頑張って生きていますと言えます。
こうして、クソくだらなくて、人からゴミブログとも言われるような(笑)ブログを綴っている時も、
書いてる本人は、それなりに必死で頑張ってるわけです(笑)。
もう片方で、「もう、そんなに頑張らなくてもいいよ。」という言葉も、あちこちで定番のように聞こえてくるご時世だったりもして、
だからと言って、何もわざわざ無理して「楽しんでます。」なんて苦しそうな顔してまで言わんでもいいがな、と他人を見ていて思うことも、頻繁にあったりします(笑)。
同じ「頑張る」という言葉でも、それは何を意味してるのかは全く違っているように思えて、
それは、自分で決めた何かや、進みたい方や、欲しい何かに向かって、それがしたくてしたくて、他人の目や評価がどうあろうと、勝手に頑張っているのか、
あるいは、自分を他人にどう魅せたいか?、自分が他人にどう思われたいか?、という欲求が強いがために、
「身の丈」でもない、あるいは実績もない領域のことをさも分かったように無理した立ち位置を繕おうとしていることなのか、
そこに大きな違いがあるような気がしています。
もし、後者のような行動行為や発言に対して、「もう頑張らなくてもいいよ。」と言っているのなら、意味合いとしてはよく理解できます。
同じ「頑張る」にしても、何を「頑張る」のかで、見ている方から応援が集まるのか、息苦しくなって避けられるのか、分かれるのでしょうね。
無理して頑張ることの最大のリスクは続かないことです。
ということは、その人が無理せず頑張っていることは、好きなだけ頑張ればいいし、放っておけばいいのでしょう。
そう考えると、やはり「身の丈」通りで一所懸命に頑張っている人というのは、見ていて素敵だなぁ、と思うし、
できれば私もそうでありたいと思うのです。
てなことを、
真っ赤な紅葉の中で、無理して何とか頑張って、何とか理想の画像を撮ろうとして、
女子高生から笑われるという失態を経験して(苦笑)、思うのでした(笑)。
でも、そのお陰で、可愛い2人の女子高生と、すっかりお友達になれたので(笑)、
時には、無理してでも頑張ることも必要なのかもしれないとも思う、アホ丸出しのオッサンなのでした(笑)。