「ない」ものはないんだからないんだよ(苦笑)
断片的に考えていることが、うまく繋がらなかったので、場所を変えてコーヒーでも飲みながらにしよう、と外に出ました。
コーヒーのつもりがメニューを見ていたら、案の定、何か食べたくなって(苦笑)、食事を注文してしまいました。
そんで、料理に塩をかけようとしたら、いくら振っても塩が出てる気配がない。
おかしいなぁ、とフと裏側を見てみたら、ないんじゃん(笑)。
そもそも、塩ないんじゃん(笑)。
ないもんはいくら振っても出てこんわね(笑)。
あぁ、そうか、と気づかせてもらいました。
私の場合、考えが纏まらないのではなくて、そもそも出てくるだけのものがないんだな、と(笑)。
そもそも自分の中にないもんは、「ない」からない。
「ない」んだから、いくら振ったところで、どんなに考えたところで、「ない」んだから出てくるわけがない(笑)。
「ない」ものはないのです(笑)。
子供の頃から今に至るまで、好もうと好むまいが、人前で何か喋る機会をたくさんたくさん頂いてきて、
いつの頃からか、時々、思うようになりました。
「ない」のに「ある」ように見せたり、見られたかったりしてんじゃねーか?とか、
あるいは、
「ない」のに「ある」と自分では思い込んでいるんじゃねーか?と。
そういう自分を自分が見てたとしたら、これは、もう相当にカッコ悪い。
何かを喋っている他人を見たり、誰かの何かの発信を見ては、
「こいつ、色々言ってはいるけど、結局何もないんじゃねーか?浅くねーか?実はペラッペラなんじゃねーか?」
と、テメーのことは棚に上げて、偉そうに思えてしまうことは正直あるんだけど(苦笑)
でも、私も含めて、公に発信するということは、誰もが「ある」と認識してしるから、「ある」を前提に何か言ってと思うのですね。
こっちがどんなに「ない」「浅い」と思おうと、当の本人は「ある」と自覚して伝えているのだから、それはもうしかたない。
そうは思うものの、ところが、当の私も、当の私も同じだと思うのです。
私も、発信している以上は「ある」と自覚しているから、何かを出しているわけです。
そういう私を見て、「ツヴォイはある」と評価する人もいるし、
「ツヴォイは何もない」と認識する人もいるでしょう。
どんなに、私が自分の中に「ある」こととして認識していても、相手が「ない」と言ってしまえば、相手にとっては「ない」となります。
深いと思えたり、浅いと思えたりするのは、自分ではなく、社会であり、他人であり、
そして、それすらも、相手側に委ねられる以上は、相手の深さ・浅さにもよるのだから、結局のところ、何が何だか分からない(笑)、
というのが私の結論であり、よって、あまり考えてもしかたないので、もう考えてません(笑)。
残るのは、その時点での自分よがりの勝手な主張でしかないのだと思っています。
私がどんなに「ある」という自覚を持って何かを伝えたとしても、
相手が「ない」と言ってしまえば、それまで。
そういうもんだと思うんですね。
そうなると、「伝える」というのは、本当に「ある」か「ない」かを考えるという問題ではなく、
実際にやってきた体験・経験や具体事例や現象が正直に伝えられるか、がまずあって、
次に、そこからどんな感情や価値観や認識を得たかということを、
ただただリアルに伝えるということしかないんだろうなぁ、と思うのです。
謙虚になって、ありのままで正直に伝えていくことしかできないのでしょうね。
それをどう評価するのは他人様。
そういうことになるのでしょう。
どんなに「ある」ことをちゃんと探そうとしても、「ない」ものはない。
「ない」のだからない。
考えても、振っても、逆さにしても、「ない」ものはない。
だって、塩がなかったら、塩の入れ物があっても、塩は出てこないんだもん(笑)。
私の脳ミソも、ないもんはない(笑)。
「ある」かも知れないけど、本当は「ある」か「ない」かは正確には分からないのだから、
だったら、もう最初から何も「ない」、と自覚しておけば、もう考えなくて良いから、いい、それでいい、なくていい(笑)。
よって、こんな私でも、伝える側をご指名・ご依頼頂くからには、実際にやってきたことを、赤裸々に、正直に、失敗も成果も全部、ちゃんとお伝えする、
せめて、それはさせて頂くようにしようと謙虚になるのでした(苦笑)。
そう思って、考えるために外に出たに関わらず、結局は、外に出たことそのものを目的にすり替えて(苦笑)、
やっぱり遊んでしまって(笑)、
少しはちゃんと考えるようにはしよう、と反省もするのでした(苦笑)。