ほとんどのことは、大体まぁまぁどぉでもいいやとなる(笑)
大きなポスターの素敵なお姉さんと一緒に撮ろうとして、遠近感を合わせるのに必死でした(笑)。
どんなに合わせようとしても、本物かどうかはやっぱり分かりますね(笑)。
「他人は変えられない」というのは、ほとんどの人は言葉として知っているし、頭では分かっていながら、
でも現実には、他人が自分と同じ考えでなかったり、動きをしていないと、腹を立てたり、悲しんだりもします。
誰もが他人からつべこべ言われずに、自由な生き方や選択ができた方が良いと思いながら、
でも、誰に対しても何事においても「そんなの、あなたの好き勝手に生きてればいいじゃん。」と言ってしまうと冷たく突き放されたように感じるというのもあるでしょう。
お金だけじゃ幸せになれないというのは、確かにそうかも知れないけど、
でも、現実には、お金がないと現代社会ではそもそも幸せに対する選択ができません。
戦争で人殺しなど誰もが反対だろうと私は思っていますが、
自分の愛する人が凶悪犯に人質に取られて、今にも殺されるかも知れないという時に、100%犯人を殺せる方法があるとして、それでも人殺しは反対だからしないと私は公に言い切ることができるのか?
色んなことを片方だけで考えて断定しきると、本当にそう言い切れるのか?という問題は必ず出てくると思ってるんですね。
そう考えると、人というのは、同一人格の中に、そもそも多様性や多面性を持っているのであると考えるのが、私は当然だと思っていて、
よって、自分の思考や見解を正しいと言い切り、断固、絶対断固曲げない人に対しては、私は本当にそうか?その根拠は何か?と確認したくなります。
要は、そもそもの人としての魅力をあまり感じません(苦笑)。
迷ったり、揺れたりするのは極めて当たり前だと思っています。
ただ、それでも、選択や意思決定はせねばならない時はしなきゃいけないわけだから、
ピンからキリまでの幅の中から、今のところ自分はこの選択をします、と言い切らないと主張にはならないわけですね(笑)。
そういうことを考えると、ほとんど大体のことは、結局は分からないのだから、ほとんど大体のことは、まぁそんなに頑なにコダワルことなんてなくて、どぉでもいいや、と、私はなるのですね(苦笑)。
私の場合は、絶対に譲れないものがあるとしたら、今のところ一つあると思っていますが、でも、本当に言い切れるのかどうかというと、あるかないか程度というのが正しい気もします。
こう書くと、いかにも事なかれ主義のように思えたりもするから面倒なんですけど(苦笑)、でもその程度といえばその程度なのです。
だから、日々の中でちょっと思うことがあっても、やっぱりまぁどぉでもいいや、となります(苦笑)。
そういうほとんどどぉでもいいようなことばかりなのを前提に、それでも、目の前にあることを、その時に最善だと思えることを一所懸命選択して、一所懸命やるしかないんじゃないかなぁ、と。
私はとりあえず今のところは、そう考えています。
よって、どんなに頑張っても、うまく撮れなかったとしても、うまく撮れるように選択を繰り返して、一所懸命やったのなら、まぁ、いいか、とあまりうまくいかなかった画像を見ながら思うのでした(笑)。