願望と普通の狭間を認識しておきたい
そぼ降る雨の名古屋でした。
すっかり涼しくなってきて、秋雨の風情ですね。
この時期になると、そろそろ革ジャンが着られるかなぁ、と思いながら、
でも、講演とかセミナーとか人前に立つときは、春だろうと、夏だろうと、真夏だろうと、
登場する最初だけでも、暑いの我慢して革ジャン着てるわけで(笑)、
一年中通して革ジャン着てたいなぁ、という願望は叶っているといえば叶っているわけで(笑)、
そうなると、革ジャンに袖を通す瞬間の楽しみや喜びというのは、
以前よりは、きっとなくなってきてるんだろうなぁ、とも思うのでした(苦笑)。
確かに、以前よりは、一年のうちの、その特別とも言えた日(今年初めて革ジャンに袖を通す日)の感覚はなくなってるのだろうと思います。
願望とか願いとかいうのは、叶ってしまえば、叶うわけで、それはいつしか願望や願いではなくなって、普通になってしまって、
喜びでも楽しみの概念もなくなってしまうという、切なさや儚さも併せ持っているのだとも思います。
そう考えると、今ここにある普通で当たり前だと思っていることは、そうでなかった時からしてみると、とてもありがたいことであったり、
忘れてしまっている頃からすれば、手を伸ばしてでも欲しかったことが、すでに手に入っていて幸せなはずなんだけど、
いつしか、叶えられているという本来のありがたみや感謝の気持ちを無くして、高慢になっているんじゃないか?と我振り返らなきゃいかんな、とも思うし、
でも、人というのは、願望や熱望する純粋な欲というものは、ある程度成長していく上で必要だとも思うし・・・・、
実現したいものがあるうちは、実現できていないことが不幸せだと思っていても、
実は、「どうしても実現したいことがある」と自覚しているというのは、とても幸せであるとも言えるんだろうなとも思うのです。
私のような煩悩の塊のような者(苦笑)は、今の不足感ばかりに囚われて、次から次へと止めどなく渇望するものが生まれてきてしまって、
本当はこれじゃいかんのだろうな、と思いつつも、
でも、過去に、(あぁ、将来こうなっていたら、とっても素敵で楽しいだろうなぁ)と勝手に妄想したり、映像化していたりしたことは、全てとは言わないまでも、いつしか少しづつ少しづつ叶えられている今を鑑みると、
望むべく姿は描いておいた方がいいと思っているし、
逆にいうなら、妄想や構想していたそれ以上は、実現しようがないとも思うのです。
まぁ、ビジョンとか、いい言葉で表現すればカッコいいんでしょうけど、私の場合は、そんなご大層なもんとも思えなし、ご立派そうには何となく言いたくない(苦笑)。
せいぜい一年中通して自分で納得して革ジャン着るにはどうしたらいいのか?程度ですから(苦笑)。
てなこと考えながら、欲しい何かが得られない今があっても、異常に焦ったり、大して悲観的にもなることもなく、
かと言って、誰かに役立つような、ありたい自分の姿を描くこと必要だと思うわけで、
どっちも素直に認識しながらも、だいたいまぁまぁ、あんまり気持ちが極端に上がったり、下がったりするようなことなく、
自分のことは、ギャアギャア言うことなく、落ち着いていたいなぁ、と思う、
夏から秋への季節の変わり目でした。
それにしても、あぁ、革ジャンを暑苦しいと思うことなく、普通に街や移動中に着られるのが楽しみだ(笑)。