主張したければ真逆の主張も聞くのがマナーだと思うのです
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- 坪井式屁理屈
見知らぬ街での打ち合わせでした。
自分の生まれ育った環境と同じように見える商店街でも、よくよく見てみるとまるで違っていて、故にその環境でお仕事をされている方も、考え方が似ているようで全く違う考え方だったりして、そういう方のお話をよくよく聴いていると、場所同様に何かと新鮮な発見があってとても楽しいです。
私と同じような目的でも、私とは全く違う生き方やアプローチをしている人は当然ながらいて、でも、そういう人の話でも一通りはちゃんと聴くように努めてはいます。
どんなに私とは違っていても、その主張そのものをしたいんだ、という動機は認めるといったとこでしょうか。
自分の主張を聞いて欲しいのであれば、相手の主張が自分とは全く違っていたとしても、その主張そのものについては一旦聞く、というのが、主張する上でのマナーだと思っているからです。
自分の主張は聞いて欲しい、でも相手の主張は聞きたくなくない、というアホは案外多くて、そういうのは、どーぞ神様にでもなったつもりで勝手に生きて勝手に死んでいって下さい、と思っています(笑)。
お互いの主張が違っていることが問題なのではなくて、相手の主張に聞く耳を持たなかったり、理解しようとするキャパがないことが問題であるというのが私の見解です。
私とは正反対であっても、主張が明確で一貫している人の話は、主張するだけの根幹となる理由(これは大抵は経験則によるもの)や、主張を展開していく上での論理性は参考になることが多く、そこまでいくと話していてとても刺激的で面白いです。
全く違うのだから、主張そのものには全く共感はしませんが、一貫して主張し続けている愚直ともいえる生き方には共感したり尊敬すらしたりすることがあります。
「違うから一緒にはやらない」というのが一般的には普通なのでしょうが、面白いもので互いに一貫性のある違いを認め合うから、反対側から学んだり、化学反応を期待することを主旨として一緒にやってみるというパターンもあります。
「マイナスのマイナスはプラス」「反対の反対は表」のような何とか話法のように、「違い」というのは、徹底的に一貫していればいるほど、別の場や角度で「一緒にやってみる価値を生む」、例えばコラボセミナーで両極から一つのことをアプローチして参加者に問うたり一緒に考えるというように、面白い企画が生まれる可能性があります。
そういう可能性を探るという意味でも、気の合う相手とだけではなく、全く違う考えを持った相手の主張を最後までしっかり聞く、というのは自分の為にとても必要な行為だと思うのです。
まぁ、話をしながら自分の主張は明確か?一貫性を持っているか?ということの確認もしていっているのでしょうね。
てなことを久々に考える時間でした。
主張の違う人と会話する機会というのは、放っておいたらなかなかないし、かといって意図するとなるとこれが結構面倒なので、ひょんなことから出くわしたらそれはとっても貴重なのだと思うのでした。