「本質」と「伝え方」における私にとって難解で考えがいのある課題
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- 坪井式屁理屈
難しいことを、いかに難しくなく伝えられたら・・・・、
とても難解であったり、目には見えないけど本当に大切にしたいこと、本質や物事の根幹を成すこと・・・、それらをいかに難しくなく、いかに分かり易く、いかに楽しく、いかに面白く、相手の状況に合わせいかに理解しやすく置き換えて伝えられたらどんなに素晴らしいことか・・・・・。
とても大切だけれど、とても難しいこと・・・・、でも、それを何とか伝えようと必死に表現する誰かの姿に、時として美しさすら感じて感動することが私はあります。
至らぬのは重々承知の上ながら、私も人様の前に立って、何かをお伝えする立場になる時は、そうありたいと常々思ってはいますし、ご依頼を頂いてお受けした以上は、口ではアホなこと言っていようと、時間をかけて準備したり練習したりそれなりの努力はします。当たり前ですけど・・・・。
そう本気で考えて、どれだけ本気で表現したとしても、誰しもが発信手の立場になった以上、評価は常に第三者というのが前提であるが故、意図した通りに相手に伝わったかどうかというのは、人によって判断されるわけで、かく言う私も、人の発信や表現というものに対して、100%私個人の価値観で評価したり判断したりしているわけですから、人間社会に属する以上、それは誰しもの永遠のテーマであり、人生をかけて探求し続けるだけの価値があるのだろうと思っています。
ただ、しかし・・・・・・、
そういう私の「伝え方」を人づてに聞いて、断片的・表層的な一つの情報だけ捉えられて、本人にその「本質」となる真意も確認せずに一方的に判断され、行動を規制されるようなことがある場合、私は強烈な反発を憶えます。
それはもう決して交わることのないであろう根本的な違いを実感させられるものであり、そもそも共有できるであろう概念がないのだろうから、ないものは「ない」のだから、話し合いも何も、「ない」ものに対して何を伝えてもしかたない。
そういうお相手と、今後どう関わっていくのか、もう終わるのか、適当に合わせてお付き合いしていくのか、という問題にまで関わってきます。
伝わらない自分をまだまだ至らないと精進しようと思うのか、人間が違うのだからそういう人とはお別れしていくべきと諦めるのか、その分岐もまた本人の現実的な環境・状況によって選択は変わってくるのでしょう。
今年最後にそういうことをよくよく考えさせて頂ける、大人になりきれない、納得できない出来事があって、改めて私が大切にしていることに、
①物事の「本質」を捉える心の目を持てるかどうか
②それを「いかに伝えるか」の個性をどこまでを良しとするか
の二つの視点は、やっぱりとても重要だと思っている自分に気づくわけです。
そして、
③私が一緒にいたくて共有したい相手は誰なのか
・・・・・・・・・・。
今年、残された時間をかけて、今後どうするのか、しっかり考えるだけの重要な課題を頂けました。
という難解なテーマを、時間をかけて何度も書き直したに関わらず簡単に書けないあたり、全然ダメじゃんと思いながら・・・・・(苦笑)。
具体事例が書けない問題は難しいですね(苦笑)。
私にとっては来年へ向けて、そして今後の生き方について考えがいのある内容で、それはそれでちょっと嬉しいです(苦笑)。